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Author:rekikyo
大阪大学歴史教育研究会の公式ブログです。
原則として事務局スタッフの記事を中心に週一更新、その他告知や参加メンバーによる投稿等があれば随時掲載します。

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大木匡尚先生のコメントへの私的回答(油井大三郎)

 先日掲載いたしました大木先生の提言について、東京女子大学の油井大三郎先生よりコメントを頂きました。
 ここに掲載いたしますので、あわせてご参照ください。


大木匡尚先生のコメントへの私的回答
油井大三郎(東京女子大学)

 大阪大学歴史教育研究会の公式ブログで大木先生が日本学術会議の高校地歴改革分科会が出した高校地歴教育改革に関する提言に対して出された貴重なご意見を拝見しました。私は、この提言が発表された時点では当該分科会の委員長でしたが、現在は、提言発表後に発足した高校歴史教育分科会の一委員にすぎませんので、あくまで個人の資格で感想を述べさせていただきます。
 まず第一に、学術会議のメンバーはほとんど現職か元職の大学教員で占められていますので、高校教員の皆さんとの意見交換が極めて大切と考え、提言をまとめる過程でも高校教員の方を分科会やシンポジウムにお招きしてご意見をうかがってきました。昨年10月から発足した高校歴史教育分科会では、提言で並記されていた(A)通史型、(B)近現代集中型、(C)主題学習重点型の3種の「歴史基礎」の統一案の作成を開始しています。それだけに一層、高校教員の皆さんの貴重なご意見をこの統一案に反映することが大事だと考えています。日本の教育課程の決定はなんといっても「トップダウン」の傾向が強いのですが、私が専門としている米国の教育制度では地方分権的であることもあって、民間の研究団体や教員団体の提言が中心的な影響力をもつ「ボトムアップ」の傾向があり、日本でもそのような方式を少しでも取り入れた方がよいと思っています。それ故、大木先生が実施されたアンケート結果などは現在の高校生の生の声を聞くよい機会になったと感謝しています。今後も現場の情報を教えていただいて、「歴史基礎」のよりよい統一案ができればよいと期待しています。
 第二に、大木先生は、学術会議の提言が「大学受験を前提として高等学校における世界史もしくは日本史の教育内容を再構築しようとし、・・・高等学校における教科教育を大学での教育及び研究に従属させ」ようとしていると判断されているようですが、これは誤解だと思います。学術会議の提言で、「歴史基礎」と「地理基礎」を必修とし、選択科目として現在のB科目である世界史・日本史・地理を残すように提案したのは、B科目が大学受験対応になっている現実を尊重した結果でした。逆にいえば、「基礎」はすべての高校生に学んでもらいたいもので、大木先生が指摘された「市民として最低限必要な歴史的な素養と知識」の育成と一致するものと考えています。
 重要用語を限定すべきとした提案で問題にしているのは、改訂の度に用語が増加しているB科目の方が主で、用語の厳選によって発生する授業時間の余裕を使って「歴史を学ぶ楽しさ」や「思考力育成」に繋がる授業の導入を提案した次第です。この間、多くの高校教員の方と意見交換した際に強く言われたことは、大学側が細かい用語の暗記力を問うような出題を繰り返しているために、高校でも「用語の暗記中心の授業」をせざるをえなくなっている現実への批判でした。それは進学校に限られた問題なのかもしれませんが、大学入試改革もセットにしなければ高校の地歴改革はスムースには進展しないと考え、重要用語を限定するガイドラインを歴史関連学会で申し合わせ、その尊重を大学の歴史研究者に求めたらどうかと考えた次第です。
 勿論、歴史基礎の場合も、用語を厳選し、「思考力育成型」の授業が可能になる工夫が必要ですが、それは大学入試に直結するものではありません。むしろ将来、自立した市民として生活する上で必要最小限の知識や思考力を育てる教育内容はどのようなものか、の検討が必要で、その面での助言を多くの高校教員の皆さんからいただけると、「歴史基礎」の統一案を作る上で参考になると期待しています。
 第三に、「特定の機関等が授業内容の精選を図るという取り組みそのものが、一部の特定の世界史叙述の固定化につながり、他の叙述の可能性を否定する」とか、用語を厳選した「ガイドラインを作成した場合、きたるべき高等学校の世界史及び日本史の教育内容は、画一的で固定された教育内容になろう」というご指摘についてですが、この点にも誤解があると思います。提言では、従来の歴史教科書が、通史を説明した本論部分で一定の解釈に基づく叙述を淡々と行っているだけで、設問もないため、生徒はその解釈や用語をひたすら暗記するだけになっている状況を批判し、歴史的思考力を育成するためには、通史部分にも設問などを設けて、生徒が「考える楽しみ」を味わえるようにすべきだと提案しています。つまり、過去には別の道もありえたし、過去の解釈にも多様な解釈がありうるので、教科書の叙述にも複数主義を取り入れるべきというのが提言の基本姿勢になっています。それ故、大木先生がいわれるように、学習内容を精選し、実感を伴うような授業内容を導入してゆく方向は学術会議の提言との一致するものと考えています。
 また、教育内容を特定の機関が方向づけることへの疑問についてですが、現行の歴史教科書の多くは大学教員が中心になって作成されているため、高校現場での授業時間の制約などが十分考慮されず、最新の研究動向を反映させた新しい内容を改訂の度に盛り込む傾向が続いています。その結果、教科書のページ数が改訂の度に厚くなり、授業が現代までゆかずに終わったり、全体の時代をカヴァーするため駆け足で授業を進める実態がある点も多くの高校教員の皆さんから指摘されました。この欠陥を是正するためには、高校の授業実態に即して教育可能な用語数をある程度限定する必要があるのではないでしょうか。勿論、それは重要用語と関連用語の区別をつける作業ですので、重要用語以外は教えてはいけないという「ガイドライン」ではありません。また、各用語を関連づける方法は各教科書執筆者に任されていますし、教科書の内容をどう生徒に伝えるかは高校教員の方々の意志が作用するところだと思います。さらに、教科書の記述を学術会議の提言が提案しているように、複数主義に転換できれば、特定の歴史観を押しつける心配はないと思います。むしろ、重要用語を限定するガイドラインが大学の歴史研究者によって尊重され、その範囲で出題される状況が生まれれば、高校における歴史教育の自由度はもっと増加し、創意工夫をこらした歴史教育が可能になるのではないかと考えた次第です。
 以上、気が付いた点だけ、個人的な立場で指摘させていただきましたが、今後も、高等学校におけるよりよい歴史教育の実現を目ざした様々なご助言を期待しております。
 
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大木匡尚「日本学術会議の提言する「歴史基礎」等に対する指導内容の「精選」に関する私的提言(2)」

大木先生の提言の続きです。


3 「履修・修得」と「知識」の壁 -「高校生の歴史知識についての調査」から-
では、高等学校において世界史及び日本史を「履修・修得」したはずである現在の高校生たちは、どの程度の歴史の「知識」を有している、または有していないのであろうか。筆者は、現任校に着任早々の2012年4月に「高校生の歴史知識についての調査」と題した調査を実施した。この調査では、前年度までに世界史Aの履修を終えている3・4年生の58名を抽出して、中学校までに学習した日本史上の人名とその関連項目、高校2年時に学習した世界史上の人名とその関連項目を語群から選択して結びつけるというものである。なお、人名の後ろのアスタリスクは小学校学習指導要領第2章第2節社会科の「内容の取扱い」第6学年において列挙されている人物である。
この調査で注目すべき点は、日本史・世界史とも、知識の定着が進んでいない点である。すなわち、小・中学校と2回にわたって学習したはずの日本史分野の事項であっても、生徒には定着の度合いが低く、また高校2年時に学習したはずである世界史分野の知識にいたっては、ほとんど馴染みがない事項になっていることが窺える(【表1】【表2】参照)。

【表1】日本史分野の調査結果(クリックで拡大)

日本史分野の調査結果


【表2】世界史分野の調査結果(クリックで拡大)

世界史分野の調査結果


筆者は、彼らの中学校時代や世界史履修当時の学習を知る由もないが、この結果は、学習者である生徒、授業者である教師双方に課題があることの証左であろう。しかし、それ以上に、世界史にしても日本史にしても、一般的に、生徒にとっては実感を伴わない授業内容になっていることが窺える。昨年度、筆者は前任校において、生徒にとって身近な景観を教材化し、地理歴史統合的に日本近現代史の全体像を描いていく授業実践を行った。そこでは、普段は意欲を感じられない教育課題校の生徒たちが、生き生きと学習する姿を目の当たりにした。筆者は、こうした実践と現状を踏まえ、すべての高校生たちの学習の機会を保証するためにも、改めて学習内容の精選が必要であるという認識に立ち至った。すなわち、2単位の標準時数の半分にも満たない実授業時数の制約と、多様な生徒の学習上の課題という制約のなかでの学習内容の精選は、前述の通り、かえって教師の側としても明確な世界史像の叙述が必要となる。とくに、教育課題校に在籍する多くの生徒たちにとっては、「『最初で最後の』世界史学習の機会」となることから考えても、世界史の全体像を指導する必要があり、そのためにも世界史の全体像の叙述についての議論を進めていく必要があろう。この調査は、現代社会を生きる生徒たちが、市民として最低限必要な歴史的な素養と知識とはどのようなものであるのか、ということを考えていくことこそ、歴史教育に携わる人間に課された使命であると認識を強めた結果であった。

結語
翻って、筆者の立場から学術会議の「提言」を読むと、課題を見出さざるを得ない。それは、一言でいえば、高等学校での歴史学習が、大学での専門教育のための基礎学習として位置付けられているように読める点である。たとえば「提言」に言うところの「グローバル化に対応するため、外国語で自分の意見を明確に発信」する能力などということは、多くの高校生にとっては無関係なことである。また、「提言」では、「生徒の『世界史離れ』の傾向が発生」する原因を、授業時数が少ないうえに、小・中学校では日本史中心の教育内容であり、さらに「大学入試の出題が用語の暗記を問う傾向が強く、高校の授業も知識詰め込み型で行われる傾向」が強いということに求めている。この認識そのものは、筆者も否定するものではないが、その対策として、学術会議は「関連学会などによる歴史の重要用語厳選のガイドラインを作成し、大学入試に反映させるよう働きかける」ことを提案している。このことを筆者は否定できる立場にはないが、大学入試を前提とした高等学校における教育課程の編成や教育内容の選定は本末転倒であるとも考えている。たしかに、各校種間の接続を意識することは大切なことであり、各校種における教育課程及び教育内容の相互連携は重要である。しかし、学校以外の「関連学会」により、大学「入試」を意識して「重要」とされる用語の「厳選」を行って「ガイドライン」を作成した場合、きたるべき高等学校の世界史及び日本史の教育内容は、画一的で固定化された教育内容になろう。これは、社会科世界史及び日本史が成立した以来、高等学校での歴史教育が担ってきた「国際社会に主体的に生き平和で民主的な国家・社会を形成する」市民としての最低限の資質の育成という「目標」とは異質なものである。
たしかに、高等学校における歴史教育を活性化することは喫緊の課題である。しかし、多様な高等学校や高校生の実態を省みず、大学での研究・教育「のための」教育改革を行うことは次元の違う問題であろう。また、大衆化した高校生の実態を、嘆き、批判することは容易であるが、中学校等卒業生のほぼ全員が進学する現在の高等学校現場の立場を理解し、こうした高校生にとっていかに教科の目標を提示し、その目標を達成していくことこそ喫緊の課題であろう。高等学校における歴史教育の場合、授業内容の「精選」を行うということは、歴史用語の数を減じることではなく、むしろ世界史の全体像を「叙述」することである。筆者も、本稿では、日ごろの実践者としての立場を離れ、やや批評めいたことを論じてしまったが、今後はこのような批評を封印し、筆者の立場で、高校生たちが市民社会を生きるために必要な歴史的な素養や知識とはどのようなものであるのかについて考え、生徒にとって身近な、そして自らの生きる世界の枠組みとその歴史を叙述し、授業実践していきたいと考えている。

付記
1 本稿は、日本社会科教育学会第62回全国研究大会における自由研究発表Ⅰ-第3分科会(2012年9月30日、東京学芸大学)における筆者の報告「高等学校地理歴史科における指導内容の『精選』に関する一考察―定時制課程専門学科における実践を踏まえて―」の発表原稿をもとに改稿したものである。
2 本稿は、2011年度及び2012年度日本学術振興会科学研究費補助金(奨励研究)、2011年度東京都教育庁日本史必修化研究費による成果の一部である。

宋代の軍事・対外政策

 今年度より事務局のメンバーになりました、大阪大学東洋史研究室・博士後期課程の伊藤一馬です。本来ならばもっと早くに記事を書かなければならなかったのですが、とても遅くなってしまいました。今さらという気もするのですが、今回は簡単な自己紹介と今年度の前期にしたことを少し書きたいと思います。

 私は現在、大阪大学の東洋史研究室の博士後期課程に属しています。歴史教育研究会には、前身(?)のCOEの全国高校教員研修会のお手伝いをさせていただいてから携わっています。実は歴史教育研究会が大学院生の授業となった際の、履修第1期生でもあります。当時は履修者の課題や発表という義務はなく、代わりに毎回のレポートが課されていました。そのレポートの提出率があまりにも悪かったために、いまの形になったのだと思っています(もちろん毎回きちんと提出していた人もいます!私は半分ぐらいでしたが・・・)。

 それはさておき、私は歴史教育研究会の活動の中で中央ユーラシア史の用語リスト作成や、桃木先生の著書の書評などをしてきましたが、自分自身の研究について話すことはありませんでしたので、少しそのことにも触れおきたいと思います。私自身の研究テーマは、ひとことで言えば、「宋代の軍事・対外政策」となります。もう少し丁寧に言えば、10~13世紀に中国に成立した宋王朝(北宋・南宋)の軍事・対外政策、ということになるでしょうか。10~13世紀という時代は、近年の「世界史」全体に通じる時代区分・時期区分を考える動きの中で、国際情勢・国際秩序の変動、再編成があったとして画期として注目されているかと思います。そうした「世界史」上の画期である時期に成立した宋王朝が、自らを取り巻く国際情勢・国際秩序にどのように対応しようとしていたのかということに関心を持っております。宋という王朝については、経済的・文化的な優勢というイメージと、軍事的な劣勢というイメージの、2つのイメージがあるように思います。両者は乖離しているように思われますが、宋王朝を取り巻く経済的・文化的な文脈と軍事的な文脈をいかに結合することができるかということを、軍事・対外政策に着目して考えたいと思っています。実は今年の4月末にソウルで開催されたAAWHではそのような話を、大掴みながらしてきました。

 もうひとつ、今年度に入ってから歴史教育研究会に関わることでいくつか貴重な経験をさせてもらったことについて触れておきます。ひとつは東京大学の羽田正先生の『新しい世界史へ』(岩波新書)の合評会が縁となった羽田先生主宰の若手研究者交流会での報告、もうひとつは大阪大学の日本史・西洋史・東洋史専修の学部2年生必修の歴史学方法論講義での報告です(他専修や院生も含む他学年もいますが)。

 若手研究者交流会は、7月22日・23日に東京大学東洋文化研究所で行われました。会自体についてはこのブログで別に触れられると思いますが、私はAAWHで話したことをまとめ直して話しました。その際に議論になったこととして、「中国」という枠組みはやはり大きすぎるのではないかということです。この議論は、期せずして歴史教育研究会の7月例会でも議論になったことですが、時代によって伸縮する「中国」、様々な「多様性」を内包する「中国」を「宋王朝」として一枚岩に捉えるのは場合によっては不適切だということになるでしょう。博士論文に向けて、改めて考えなければならない問題だと思いました。

 歴史学方法論講義での報告は、桃木先生のブログでも紹介されていますが、日本における「東洋史学」という学問の成り立ちを知ってもらうということと、自分の経験を紹介するというものでした。「東洋史学」の成り立ちは措いておきますが、自分の経験については役に立つか、参考になるかとても不安でした。自分が2年生だった頃からのことを思い起こしながら話したのですが、思っていた以上に参考になったという感想をもらえたので、安心しました。もう少しうまくまとめて、自分がどのような経緯で今の研究テーマに取り組むことになったのかも話せればよかったなとは思っていますが。こういう機会はなかなかあるものではないので、自分を見つめなおすという意味でもとてもいい機会を与えてもらったと思っています(聞いてくださったみなさん、どうもありがとうございました)。

 今年度の前期は、このような機会があったのですが、後期は12月提出期限の博士論文に専念しなければなりません。この経験も生かしつつ、無事に博士論文提出のご報告をできるように頑張りたいです。(文責:伊藤一馬(事務局))

借款をめぐる日中関係

 初めまして。後藤敦史さんの後任として、2012年度から歴史教育研究会の特任研究員に就任致しました大阪大学大学院文学研究科博士後期課程3年の久保田裕次です。よろしくお願いします。日本近代史、特に日露戦争後から第一次世界大戦期までの日本外交史・日中関係史を研究しています。今回は私の研究テーマについて簡単に紹介させて頂きたいと思います。

 私は、大学4年の3月に卒業旅行で上海を訪れたことがあります。私が卒業旅行先になぜ上海を選んだかというと、卒業論文で三井物産や横浜正金銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の中国での経済活動を取り上げたからでした。上海の「外灘」と呼ばれる一角でひときわ目立つ建物が上海の税関や元香港上海銀行上海支店であり、それらに比べ小規模であるものの、正金銀行や日清汽船の支店も軒を連ねていることを事前に知ってはいました。しかし、実際に訪れてみたことで、上海を代表する風景に近代日本が一役買っていたことを肌身で感じることができました。
 一方で、上海万博を控え、上海環球金融中心はほぼ完成し、建設ラッシュが進んでいました。浦東地区の摩天楼は中国の目覚ましい経済発展を象徴しているようでした。地下鉄では、英語も中国語もほとんど分からない私たちに、ある中年の男性が地下鉄の路線図を指さして「12本になるんだ!」(不確かな記憶ですが、当時は6本位しかなかったと思います)と自慢げに話していたことは、今でも印象深く覚えています。

 こうした経験が私にどのような影響を与えたか具体的には分かりませんが、現在、私は経済問題をめぐる近代の日本外交・日中関係を研究しています。特に、「漢冶萍公司」という中国最大の製鉄会社に対する日本の借款に注目しています(借款とは、簡単に言えば、国家間のお金の貸し借りのことです)。漢冶萍公司は鉄鉱石・銑鉄の輸入先として、近代日本の製鉄業、さらには産業発展には欠かせない存在でした。そのため、日本政府は官民一体となって、漢冶萍公司へ借款を供与し、関係を深めていくことになります。ブログをご覧になっているみなさんの中には、対華21カ条要求や中国の近代化などとの関わりで、知っておられる方もいるのではないでしょうか。
 漢冶萍公司は工場や鉱山を現在の武漢周辺に所有し、それを上海の本社で統括するという経営形態をとっていました。長い間、公司の社長を務めた盛宣懐という人物は、李鴻章の幕僚として活躍した経験を持ち、上海の経済界に大きな影響力を持っていたと考えられています。また、鉄道や海運業の発展など中国の近代化に尽力した人物としても知られています。
 中国語の文献や史料を読み進めていく中で、近代(現代もそうですが)中国の政治・社会の複雑さに圧倒され続けています。中国は広大な土地、膨大な人口を抱えています。そのため当然のことかも知れませんが、一つ漢冶萍公司に関係している主体を挙げてみても、中国政府(清朝や中華民国政府)、工場や鉱山が立地する湖北省・江西省政府、最高経営責任者であり上海財界の有力者である盛宣懐、反盛宣懐派などがいて、それぞれの思惑が複雑に交差しています。こうした中国側の状況は日本による借款を常に左右しており、ふと気がつくと、私は漢冶萍公司や盛宣懐そのものに大きな魅力を感じるようになっていました…
 それはともかく、私は、製鉄業の発展にとどまらず、長江流域利権の拡大という政治・外交的な点においても、漢冶萍公司が日本にとって重要な存在であったと考えています。そこで、現在はイギリス外交文書(イギリス政府は長江流域を自国の「勢力圏」と捉えていました)や盛宣懐档案などの調査を進めています。昨年11月には、大阪大学OVCプログラムに採用され、約2週間にわたるイギリスでの史料調査を行う機会を与えられました。主に辛亥革命前後のF.Oを調査し、刊行されていない膨大な量の史料を発見することが出来ました。

 中国の複雑な政治・社会構造を踏まえた日中関係史の分析は容易ではありません。しかし、今後益々重要になっていく日中関係を考える上で、これからは表面的な外交交渉にとどまらず、日中両国の国内問題との関わりを踏まえた研究が特に求められていると考えています。(文責:久保田裕次(大阪大学大学院文学研究科特任研究員))

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歴史のなかの貨幣

 皆さまはじめまして、私大阪大学文学研究科・東洋史研究室の多賀良寛と申します。現在は大学院生としてベトナムの歴史を専門に研究しております。歴史教育研究会には昨年度に大学院の授業の一環として参加し、12月にはジェンダーというテーマで身体観の変遷に関する発表を行いましたが、今回はその縁もあってブログの執筆を担当させていただくこととなりました。どうぞよろしくお願いいたします。

 私の専門は19世紀に成立したベトナムの阮朝という王朝の歴史で、その中でも特に貨幣の流通について重点的に研究を進めています。そこで今回は自分の専門テーマである前近代社会における貨幣の歴史について、身近な日本の事例をあげながら簡単に紹介していきたいと思います。

 前近代社会の貨幣を研究していると、わたしたちが貨幣について抱いている固定観念が通用しない場面にしばしば遭遇します。例えば私たちは、日本=円、韓国=ウォン、中国=元というように、一つの国には一つの通貨がある(一国一通貨制度)というのが当然だとみなしており、むしろユーロのような広域的通貨は特殊な事例であると考えています。しかし歴史を振り返ってみると、私たちが当たり前だと思っている一国一通貨制度のほうが近代以降に成立した極めて特殊な制度であり、むしろ同一の通貨が国境を越えて共有されるパターンのほうが圧倒的に多いことに気づかされるのです。

 具体例をあげましょう。これは非常に有名な事例ですが、中世の日本では、政権が自前の通貨を発行することは一切ありませんでした。律令政府による銅銭鋳造事業が958年を最後に中断してから、17世紀後半に寛永通宝の鋳造が本格化するまで、日本は約600年にわたって自国通貨の発行を放棄したのです。この間中世日本の貨幣流通を支えたのは、中国から輸入された銅銭でした。特に中国の北宋は中国史上まれにみる大量の銅銭を鋳造したため、宋銭が日本をはじめ東アジア・東南アジア諸国へ流出し、各地で広く用いられました。宋銭が日本に流入するのは12世紀頃のことで、当初朝廷は宋銭の使用を禁止しましたが、民間での宋銭使用はおとろえず、結局なしくずし的に宋銭の使用は容認されていったようです。その後は宋銭に加えて明銭も日本に流入し、国内の通貨を中国銭に依存する状況が長く続きました。

 信頼されない自国貨幣を鋳造し続けるよりもいっそグローバルスタンダード?な中国銭を、というのは合理的な発想ですが、しかし貨幣の供給を外部に依存するということは非常に不安定な側面も持っています。広い地域が単一の通貨を使用するということは、どこか一地域で発生した需給バランスの変化がまたたくまに他地域へと波及することを意味するからです。今回取り上げた日本の事例ですと、中国からの銅銭供給が杜絶したり、もたらされる銅銭の質が低下した場合、日本の経済は甚大な影響を受けざるをえません。そしてこうした恐るべき事態が、16世紀後半の西日本で実際に発生してしまったのです。

 16世紀の日本に銅銭を供給していたのは、中国東南部に位置する福建省などの沿海地域でした。この地域では日本側の強い銅銭需要を受け、民間で宋銭をまねた銭を勝手に鋳造し、日本に向けて大量に輸出していました(当時明朝は海禁政策をしいていたので、当然これらの取引の大部分は密貿易となります)。その結果日本には大量の銅銭が流入してきましたが、しかしこうした状況は16世紀後半にはいって劇的に変化します。1560~70年ごろになると、明朝の政策変更や太平洋をまたぐ銀流通の開始によって貿易ルートが大きく変化し、福建における日本向け銅銭生産と輸出が停止してしまったのです。

 中国銭の流入停止は、中国銭に強く依存していた当時の西日本の社会に大きな影響を与えました。追加供給がとまったために銭が稀少になり、一部の地域では銭経済そのものが放棄され、米遣いの経済に転換したのです。それを端的に示すのが、貫高制から石高制への移行です。16世紀の西日本では徴税に際し銭建てで価値表示を行う貫高制が進行していましたが、同世紀の末には米建ての石高制が支配的となりました。この現象は、実物経済から貨幣経済へという一般的な図式からいえば、非常に不思議な現象です。しかしこれも中国銭からの銅銭供給の杜絶がもたらした影響を考えれば、整合的に理解することができます。銭がない状況において無理に銭建てで税を賦課するよりも、いっそ米を賦課基準にしたほうが合理的だと推測できるからです(これらの点についてさらに深く知りたい方は、黒田明伸氏の『貨幣の世界システム』第五章、および新体系日本史シリーズの『流通経済史』に収められている桜井英治氏の「中世の貨幣・信用」をご覧になってください。今回の記述も全面的に両論考に依拠しています)。

 以上の記述で、中世の日本がいかに深く中国銭に依存してきたか、またそうした状況がはらむ問題点についても分かっていただけたのではないかと思います。日本近代史研究者の与那覇潤氏は、「中世は『武士の時代』ではなく『中国銭の時代』、日本人が中国の貨幣を使っていた時代である」と述べていますが(与那覇潤『中国化する日本』)、これは確かに的をえた意見だと思います。こうした観点からみると、江戸幕府による寛永通宝の鋳造は、中国銭に依存する中世的状況と決別し、新しい貨幣システムを形成しようとする壮大な試みだと評価できそうです。また江戸幕府は、銀が基軸通貨であった当時の東アジアにおいて東日本に実質的な金本位制を導入するという興味深い政策を打ち出しますが、これも見方によっては、銀に体現される巨大な中国経済の奔流から距離を置くための措置であったと考えることができます。 

 17世紀以降、江戸幕府は金・銀・銅の三貨を基準にした独自の通貨体制を構築し、18世紀には銀を名目貨幣化することに成功して、実質的な金本位制に到達したともいわれています。しかし19世紀に後半になると、こうしたガラパゴス的通貨体制も大きく揺さぶられていきます。幕末日本の通貨体制を直撃したのは、洋銀と呼ばれるメキシコで鋳造された1ドル銀貨でした。この銀貨は歴史的にみて非常におもしろい銀貨で、スペイン領であったメキシコで鋳造されたにもかかわらず、北アメリカやアジアで広範に流通し、地域によっては本位貨に準ずる地位を享受していました。実は冒頭にあげた元・ウォン・円というおなじみの通貨も、そのルーツはすべてこの洋銀に求めることができるのです。日本の場合、洋銀の到来は金銀比価につけこんだ裁定取引を惹き起し、その結果大量の金が海外に流出するという事態が発生しました(これを題材にした経済小説に、佐藤雅美氏の『大君の通貨』があります)。

 当時東アジアで最も洋銀の流通が盛んだったのは隣の中国大陸で、特に経済先進地域であった上海では、洋銀を本位貨とする貨幣システムが成立していたました。従来アジアでは貨幣として銀を用いる際に重量と品位を計って使用していましたが(秤量貨幣)、18世紀以降海外から洋銀が流入してきた結果、一部の地域では銀貨を一枚、二枚・・・と数えて使用する慣行が広がりました(計数貨幣)。使用に際しての利便性という観点からみると、もちろん後者の計数貨幣ほうが計量の手間も省けて簡単です。しかし計数貨幣的使用が可能になる条件としては、皆が銀の重量・品位は一定だという信用を共有することが必要になります。幸い洋銀は史上まれにみる良貨として知られ、長期間にわたって品位や重量が安定していたので、目ざとい中国の商人たちも、安心してこの銀貨を使用することができたわけです。

 長期間にわたって安定した品位を保ってきた洋銀ですが、19世紀の前半にメキシコがスペインから独立すると、洋銀の品位に混乱が生じ、以前のように安定した銀貨を供給できなくなるという事態が発生しました。中国に輸入される洋銀の質も多様化するわけですが、こうした状況では商人たちは安心して銀貨を使用することができず、スペイン領時代に鋳造された一部の洋銀に異常な高値がつくなど、中国経済に大きな混乱が生じたといわれています。19世紀中国の経済危機というと、アヘン流入にともなう銀の大量流出がもっともよく知られています。しかし最近の研究によると、中国経済に危機をもたらした要因は単純な銀の流出ではなくて、むしろ中国商人の需要する良質な銀貨が供給されなくなったことに求められるという見解が提示されています。実際には複合的な要因がかさなって危機がもたらされたと考えるのが穏当なのでしょうが、これまでの研究者が量という観点からしか銀を見てこなかったことに反省をせまり、むしろ当時の人がどのような銀を欲していたのかという需要の質に着目した点では、画期的な論考だといえます。

 東アジアの貨幣史研究は近年発展めざましい分野で、また日本の研究者が世界をリードしている分野でもあります。しかしこうした業績はまだ世界史の教科書や史料集などには十分に反映されていないように感じます。銅銭やコインの図版を載せるのはいいのですが、それらが果たした経済的意義についてしっかりと説明しなければ、貨幣史=古銭マニアの世界というイメージを植え付けることになりかねません(実際に私がそうでしたので)。貨幣というのは現在に直接つながる身近なテーマですし、最近のユーロ問題とも関連づければ、歴史教育の題材としても非常に有益なものとなりうるのではないでしょうか。
(文責:多賀良寛(大阪大学大学院博士前期課程))

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