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Author:rekikyo
大阪大学歴史教育研究会の公式ブログです。
原則として事務局スタッフの記事を中心に週一更新、その他告知や参加メンバーによる投稿等があれば随時掲載します。

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日本史の研究者として感じたこと

特任研究員の後藤敦史です。
今回の記事を担当させていただきます。

さて、桃木先生のブログでもとりあげられ、すでに読了した方も多いかもしれませんが、
羽田正『新しい世界史へ―地球市民のための構想』(岩波新書、2011年)
が刊行されました。
これはすぐに読まねば、と考えまして、先日の日曜日、1日でいっきに読み終えました。

羽田先生の熱い、熱い思いが伝わった―
まず、率直な感想はこれです。
「国家」を単位に世界史が語られる状況がまだまだ根強く、それゆえに、歴史をめぐって互いのナショナリズムが衝突することの多い中で、そのような対立の連鎖を乗り越えるためにも、「国民」を大きく超えた「地球市民」のための世界史を描く…
もちろん、羽田先生も認めているように、その達成には、非常に、非常に大きな困難が待ち受けていると思います。
だからといって、それに向けた努力をしなくていい、という意味では決してない。
その努力が地球規模で進められていく中で、研究者だけではなく、文字通り地球に生きる人々みんなで議論をしながら、「地球市民」という立場からの新しい世界史が構築されていく。
なんとすばらしいことだろうか、と感じた次第です。

さて、具体的な内容については、僕が下手くそな内容の要旨を述べるよりも、読むことをお勧めする方が手っ取り早そうですので、割愛させていただきます。
以下は、日本史学の立場、ないしは歴史教育研究会の事務局をつとめた来た者の立場として、羽田先生の本を読んで考えてみたことです(羽田先生の本の書評、というわけではありません)。

日本史の研究者として、僕がこの本の中で印象に残ったのは、
「『筒』のような日本史は、共通の過去を持つ日本人という私たちのアイデンティティーを強化するために重要な役割を担っている。日本史の喪失は、私たちの日本への帰属意識を弱める方向へ働くだろう。その意味で、私は日本という国が存在するかぎり、現行の日本史という枠組みは基本的に維持してよいと思う。もちろん、それは完全な一国史ではありえず、周辺諸地域の過去を考慮に入れて再考する余地は十分にあるはずだ」(119頁)
「一方で、地球市民のためのアイデンティティーを獲得するための新しい新しい世界史は、その中に特に『日本史』を必要とはしない。(中略)日本史と新しい世界史は両立させるべきものである」(120頁)
という2つの文章です。

実は、僕がかつて『歴史科学』(大阪歴史科学協議会、197号、2009年)の拙稿の中で述べさせていただいた点も、上の引用に近い主張です。歴史教育における科目としての「日本史」と「世界史」は、日本という国家のシステムの中で行われる教育として、2つともに重要な役割を担っており、両輪として歴史教育を支えるべきだ、というのが僕の主張だったのですが、羽田先生の上の文章は、その主張を、もっともっと分かりやすい表現で、さらに歴史教育には限定しない形で表現されています。

といっても、上の引用部分が僕の印象に残ったというのは、単に僕の主張とシンクロしたな~という安易な理由からだけでは決してありません。

大阪大学歴史教育研究会においても、新しい世界史教育に向けて活動を続けてまいりました。
ただ、その中で、往々にして抱かれる誤解(そして僕自身も研究会の研究員を始めた当初は抱いていた誤解)は、「日本史を無視ないし軽視している」という誤解です。

しかし、そもそも世界史という枠組みの中で、日本という国ないし地域の歴史は、他の国や地域の歴史よりも比重が大きくなければならない、ということはないはずです。
上の羽田先生の表現を用いれば、ある世界史の動向を描く時には日本に触れる必要があり、一方である場合には、「特に『日本史』を必要とはしない」ことだってあるはずです。
しかし、それは日本史を無視することでも、軽視することでもありません。

重要なことは、様々な新しい研究成果を反映させた世界史教育、というものを構築する課題の中で、日本のことについて言及する場合に、日本史の新しい研究成果をいかに取り入れられるか、ということです。そして、そのためには、日本史研究者の協力をいかに得られるか、ということが重要になってきます。それは、同じ課題の中で、中国史やイギリス史や、あるいは科学技術史やジェンダー史などなどの研究者の協力をいかに得られるか、ということと何の変わりもありません。

新しい世界史教育を構築する、という動きがある中で、日本史を研究している者として、いかに主体的にそこに参加・協力できるのか。
要は、研究者一人ひとりの主体性、姿勢にかかっている。
そして、こうした主体的な参加を通じていろいろな分野の方と交流すれば、それは自分自身の歴史研究の進展にもつながるのだ。

大阪大学歴史教育研究会の研究員をはじめて早5年、
ようやく、日本史研究者として何ができるのか、が見えてきた次第です。
(だからといって、微力な僕がものすごい協力ができる、というわけでもありませんが…)
(文責:後藤敦史(事務局))
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

『教科書の中の宗教』

 事務局の西田です。今回は,今年度の新刊を紹介します。
 (月曜更新ということになっていましたが,遅くなってしまいました。)

***

藤原聖子(ふじわらさとこ)
『教科書の中の宗教――この奇妙な実態』(岩波新書,新赤版1313)岩波書店,2011年6月。
 = = 構成 = = = = = =
  はじめに
  第1章 教科書が推進する宗教教育――日本は本当に政教分離か
  第2章 なぜ宗派教育的なのか
  第3章 教科書が内包する宗教差別
  第4章 なぜ偏見・差別が見逃されてきたのか
  第5章 海外の論争と試行錯誤
  第6章 宗教を語りなおすために
  あとがき
 = = = = = = = = = = =

 本書の背景には,筆者の代表科研「世界の公教育で宗教はどのように教えられているか――学校教科書の比較研究――」(2006~2008年度)(注1)の取り組みがあります。歴史以外の隣接する関連分野におけるこのような取組みも参考になるようにおもいました。同じ問題を共有している点も少なくないような印象があります。それが取り上げた理由です。
 

 本書では,特に高校倫理科の教科書の宗教に関係する部分の記述について,そこに潜んでいる記述上・概念上の問題を取り扱っています。倫理教科書に含まれる問題を,「教科書が,意図的ではなく結果的に,特定の宗教的信仰を受け入れさせようとしまっている問題」および「教科書がある宗教を他の宗教より優れいているとしたり,逆にある宗教に対して差別的な偏見を示している問題」の2点として整理し,それぞれの場合について具体例を提示し(教科書記述の比較など:第1・3章),問題が発生した原因を考察しています(第2・4章)。さらに第5章では,先に触れた研の成果をおおいに援用しながら,海外における宗教教科書・教育の状況を紹介し,それらを踏まえて,日本の社会科教育においてどのような取り組みがあり得るのかという点について論じます。

 (個人的には意識したことがなかったのですが,)宗教教育は3つ(3段階とも言うべきか)に区分できるそうです。
①「宗派教育」=特定の宗教への信仰を育むための教育で,
   何らかの教化・感化を目指すもの,
②「宗教的情操教育」=特定の宗教に限定されない宗教的情操
   (例:生命そのものや人智を超えた
    大いなるものに対する畏敬の念)を養う教育,
③「宗教知識教育」=宗教に関する知識を客観的に伝える教育。

 いわゆる宗教色は,「宗教知識教育」<「宗教的情操教育」<「宗派教育」の順で濃くなっていきます。倫理教科書では,これらのうち「宗教知識教育」の達成が目的となっている,,,,と,このように一般的には考えられていることが,議論の前提にあります。

 筆者はこの点について疑義を呈し,実際の教科書記述の精査を通じて(注2),「宗教知識教育」という看板の向こうでじつは宗教的価値判断を含み込んでしまっているような,いわば「宗派教育」的な数々の記述を暴き出しています。まさに,現場では慎重に扱われる必要があり,かつ専門家は等閑視してはならないであろう,きわめて注目すべき “奇妙な” 文脈がたくさんあるのだというわけです。

 また,こうした本文における価値判断に対する慎重さの不足にもおそらく起因して,いくつかの宗教(多くは二項対立的)を比較して「対比」的に取り扱う状況にもメスを入れます(p. 65 前後)。教科書や資料,一般書などに散見する「対比」的な記述・付図・付表などは,高校教員側から理解させやすさのために(そしてきっと生徒の側から理解しやすさのために)陰に陽に求められるものであるようですが,このような目的での「比較」とは,「違いを際立たせ,正反対のものとして示す」ことが表面的に有効です。そうした場合,多かれ少なかれ事実(現実)とは異なる情報を含み(注3),学習者に却って誤解を抱かせる可能性が高まるかもしれません。

 興味深かったのは,以上のような問題点の裏にはやはり「大学入試」が指摘できると述べられている点です(pp. 129-133)。 “入試で出るからどうしても” というからくりは,分野の枠を超えて共有されるものだと実感しました。

 主に第5章で紹介されている宗教教育・教科書に関する諸外国の状況も,とてもおもしろいです。そこで歴史の分野について振り返れば(西田が思いを馳せられる範囲で),本研究会【第44回例会】(2010年7月17日(土))における中野耕太郎先生のご発表で触れられた,アメリカでのAPコースのような実践や(注4),先の北海道での研究会で油井先生が参考に挙げられた欧米の教科書など,あらためて興味を引かれます。



**注のコーナー**
(注1)
詳細な情報はこちら。科学研究費補助金データベース「KAKEN」より。http://kaken.nii.ac.jp/ja/p/18320019 おもに宗教学の先生方による取組み。この科研では,アジア・欧米の10ヶ国の宗教教科書が翻訳(全訳・抄訳)されている(世界の宗教教科書プロジェクト制作・著 『世界の宗教教科書』 大正大学出版会,2008年,DVD形式)。

(注2)
たとえば,「~とは異なる,仏教独自のすぐれた世界観を提示している」や「神の愛と一つになったわたしたちの隣人愛は,」(わたしたちの,と述べてしまっている点にやや問題があるという)というような表現。引用は本書の pp. 10-11。さて,「精査」と表現してみたものの,じつは私もアルバイトで高校生に「倫理」を教えたときに,教科書の押し付けがましくも感じる語り口にあっさりと驚いた記憶がある。素人でも戸惑いを覚えるほど顕著に宗教的価値判断を含みながら,主観的にその宗教のアピールポイントを訴えてくる説明が,確かにないとはいえない。高校生に実際に「そうなんや,すぐれてるんやね?」と聞かれてなんと答えればよいのか。ところで,高校倫理の教科書といえば,センター試験の公民の選択科目を決めるときに「いちばん薄いから覚えるのが楽なはず!」と信じて手に取って,結果テキストの理解に苦しんで,合計すれば世界史以上の分厚さになる参考書や副読本を購入した人はたくさんいるはず。私はそうだった。

(注3)
「対比」を効果的にするためか,特定の概念などを適切な裏付けなく特別扱いでピックアップしてしまうことなどの問題に触れられている。本書の帯に「キリスト教=愛? 仏教=慈悲?」とあるように,私たちが覚えさせられた(あるいは,自分で知識を整理するうちに自ずとそう理解することになった)「愛」と「慈悲」との「対比」は宗教学的に求められる理解からは遠いという。しかし当然ながら,もしこれを是正する方向に教科書が全面的に書き換えられたとして,現場において別科目をこの問題を知らない教員が指導する際に,こうしたある種ステレオタイプ化して “教養” となってしまいがちな知識を生徒にぽろっと披露してしまうことは十分にあり得る。生徒は混乱するというか,不信感を抱きかねない。教科書を大きく変えるというのは,時間もリスクもほんとうにかかる,でも避けられない大事業といえる。

(注4)
「『アメリカ史』叙述のグローバル化――変わりゆく『アメリカ史概説』」。
レジュメはこちらからpdfファイルでダウンロードできます。


(文責:西田祐子(事務局))

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