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Author:rekikyo
大阪大学歴史教育研究会の公式ブログです。
原則として事務局スタッフの記事を中心に週一更新、その他告知や参加メンバーによる投稿等があれば随時掲載します。

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世界史・日本史・地域史をむすぶ ―もう一つの黒船来航―

特任研究員の後藤敦史です。
大阪大学歴史教育研究会をはじめ、いわゆる「阪大史学」においては、グローバル、リージョン、ネーション、ローカル、の4つの層を「くらべる・つなげる」世界史像に取り組んできました。
今回は、僕なりの、「阪大史学」で学んだ成果を発表したいと思います。

もうかなり前のこととなりますが、2010年12月、大阪府池田市内の、とある高校のY先生からお誘いをいただき、同校において
「もう一つの黒船来航」
と題して講演をする機会をいただきました。
当時、僕は池田市で、市史編さんの業務のお手伝いもしておりました。
ですので、せっかくだから、大阪大学歴史教育研究会と池田市史編纂室で学んだ成果を同時に出したい、という欲がわきました。
そこで、上記のタイトルで、世界史(グローバルとリージョン)と、日本史(ネーション)と、池田(ローカル)の歴史をつなげる試みをしたわけです。

「もう一つの黒船来航」とは、1854年(安政元)9月18日(以下、月日はすべて旧暦です)、大阪湾の天保山沖にロシア使節プチャーチンの乗るディアナ号が来航した事件を指します。
世界史の教科書にも日本史の教科書にもふれられていないのですが、外国船は大阪湾にも来航したのです。
とはいえ、ペリー来航=黒船来航、およびロシア船以外にも、イギリス船などが来航していたのであり、「もう一つの」と断言してしまうのは、厳密には正しくありません。
それでも、大阪という場でお話するということもあって、あえてキャッチーなタイトルをつけた次第です。

さて、なぜこれが世界史、日本史、池田の歴史を結ぶことになるのか。

①世界史
ロシア使節プチャーチンが大阪湾に来たのは、クリミア戦争が影響しています。
クリミア戦争の情報を得たプチャーチンは、イギリス・フランス艦隊から逃れつつ、早々に日本との交渉を結着させるため、大阪湾に行くことを決めます。

「日本全国の主であり、天の御子であるミカドの住むミアコに近い大坂の町へ行くことにしたのである。かつてヨーロッパでは、ミカドのことを、不当にも「霊の皇帝」と呼んでいた。大坂ならば根拠のない場所ではないと提督は考えた。日本人たちは、この閉ざされた聖域に、不意に異国人が現れたことに恐れおののき、早々にこちらの提案条件に応じるであろうと予測したのである。」
(『〈新異国叢書11〉ゴンチャローフ日本渡航記』雄松堂出版、1969年、616頁。2008年の講談社学術文庫版では収録されていない部分なので要注意)

以上の引用のように、天皇の住むという京都に近い大阪湾に行くことで、徳川幕府の側が驚いて、交渉が円滑に進むことを期待したわけです。
また、イギリス・フランス艦隊から逃れるためにも、大阪湾は姿をくらますのに適していた、という理由も考えられます。

しかし、十分な補給もなく、交渉も期待していたほどスムーズに進まなかったため、10月に入るとプチャーチンは下田に進み、そこで日露和親条約が締結されました。
※その交渉の途中に、安政の東海大地震が起こり(11月4日)、津波によって下田滞在中のディアナ号が損傷をうけ、後日沈没したため、伊豆半島の戸田というところで新しく船が造られた、というエピソードもあります。

②日本史
プチャーチンが予想したなかで見事に当たったのは、徳川幕府が「恐れおのの」いたということです。
当時の幕府は、まさか大阪湾に外国船が来るとは、予想もしていなかったのです。

1853年のペリー来航を機に、京都に近い大阪湾の海岸防備を強化するべきだ、という意見は幕府内部からも出されていました。しかし、結局防備は進むことなく、ロシア船の来航を迎えます。
なぜ幕府は大阪湾の海防の強化を行わなかったのか。
ここで、評定所一座といわれる幕府の役人たちの、1854年7月の意見書をみてみます。

「結局、江戸近海に渡来する外国船の意図とは、江戸城に近い所に乗り込んで、外国の志願が許されるかどうかによって、さらに江戸湾内へ進むなど、恐喝するのに都合がいいためであり、大阪近海へ来るのと江戸近海に来るのでは、もともと意味が異なっている」
(拙稿「楠葉台場以前の大坂湾防備」『ヒストリア』217号、大阪歴史学会、2009年より)

要するに、何か要求がある外国船は、江戸湾(東京湾)に来るだろう、という判断なわけです。
だからこそ、ロシア船の大阪湾来航に、大きく驚いたわけです。

この事件がその後の日本史に与えた影響をまとめると、
・京都の朝廷が、幕府に大阪湾をはじめとする近畿一円の防備強化を強く要求
・幕府は近畿近辺の諸大名に京都の防備を命じた
・そのため、軍事力をともなった大名が京都に滞在するという状況につながった
・その結果、京都の「政治都市」化が進んだ

幕末の政治史において、京都が政局の中心地となる下地がつくられたわけです。

③池田の歴史
ロシア船が天保山沖に滞在しているあいだ、現在の豊中・池田市域に所領をもっていた麻田藩(1万石程の小大名)も、出兵を命じられます。
そして、その出兵中の藩士たちの食料や武具運搬を担う農民たちが「人足」として動員されることとなります。
たとえば現在の池田市豊島南という場所のあたりにあった今在家村(今でも「北今在家」というバス停があります)では、ロシア船が来航したその日の夜に、10人が「急人足」として動員されました。
その村の庄屋は、「米の取り込み中であり、まことに大迷惑仕り」と書き残しています。

以上、講演をした高校では、クリミア戦争、幕末の朝廷・幕府の力関係の逆転、動員された池田の人びと、という順で、世界史の大きな動きが、日本史にも大きな影響を与え、さらにそのなかで生きていた人びとにも直接影響していた、ということから、
1、科目としては、世界史、日本史とわかれているけど、歴史というのは、実はそんなきっぱりと境界線で分けへだてられるものではないんだ。
2、歴史は著名な事件、人物だけで成り立っているわけではない、その当時、それぞれの地域で、実際に人びとが生きていたんだ。
※上記③の話は、もちろん池田市以外の様々な地域で話をすることができます。
3、いろんな視点からいろんな出来事を考察できる歴史って、すごくおもしろくない!?
というお話をした次第です。
幸い、それなりに好評価をいただきました。生徒さんのなかから、歴史に興味を抱くようになり、さらには大阪大学歴史教育研究会にも興味をもってくれる方が増えてくれれば、まさに本望です。


なお、「もう一つの黒船来航」については、池田市史編纂室様の御厚意で、同市の広報に原稿を書かせていただきました。
池田市のホームページから、「広報いけだ」というところを選んでいただき、その2012年3月号をクリックしていただければ、PDFで閲覧可能です。

※池田市ホームページ
http://www.city.ikeda.osaka.jp/

ちょっと長くなってしまいましたが、御拝読、どうもありがとうございました。(文責:後藤敦史(事務局))
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

「遠い記憶、近い歴史」

 六甲中学校・高等学校の置村公男と申します。最近の授業を通して感じたこと、若い世代の先生方と話をしていて感じたことを、とりとめもなく書きたいと思います。

 今学期、中3の時事問題の授業で、1月の台湾総統選挙について取り上げました。中3の移民を扱った世界史Aの授業で、華僑について話をし、その中で特に本省人・外省人の問題(特に2月28日の授業ではいわゆる「2・28事件」)について言及しました。台湾近現代史では、必ず台湾先住民族にまで話が及びます。私が教師になりたての頃(1988年)は、話がし易い状況でした。生徒に台湾先住民族の視覚的イメージとして、ドラゴンズの郭源治投手の話をすれば、たいていの場合は理解できたからです。無論、今でもプロジェクターを使うなどすれば、郭源治投手の話をせずとも、先住民族の外見・容姿を理解させることは可能です。しかし、郭投手が全盛期であった20数年前に、授業で彼の話をするのと、現在、プロジェクターで先住民族の映像・画像を見せるのとでは、生徒の「ノリ」を引き出すという点で、雲泥の差があります。勤務校は男子校ゆえ、(かつては)野球好きの生徒が非常に多く、活躍中のスター選手の話は、授業を活気づける格好のカンフル剤でもありました。

 しかし、生徒の興味関心は、野球以外の様々なものへと移ってゆきました。そもそも、郭投手も現役を引退し、今は何をしているのか、ほとんどの人は知りません。そのような状況で、台湾先住民族の視覚的イメージを生徒に喚起させる方法となると、結局はプロジェクター頼みとなります。

 ところが4年前、生徒に台湾先住民族の話をした時に、郭投手に言及すると、知っている子がクラスに数人いました。私にとっては、予想外に多い数字でした。知っている子に「なぜ知っているのか」を問うと、パワフル・ベースボールというゲームソフトで遊んでいるからだという返事でした。新聞もテレビも見ないでパソコンやゲームばかりしている最近の子供達は、ゲームを通じて、知識を広めているという側面もあります。そのような子供達は、時には懐かしの名選手を選手として起用する父親とゲーム上で戦うことにより、オヤジ世代ではお馴染みの、しかし彼らの世代では知るはずもない人々を知るようになりました。

 このような例として、台湾近現代史では、テレサ・テンを挙げることができます。やはり4年前の授業で彼女のことをとりあげた時、1995年に亡くなった彼女のことを今時の中高生は知らないだろうと思っていました。しかし、郭投手同様、クラスに何人かはテレサ・テンを知っている子がいました。聞けば、家族でカラオケに行った時の親御さんの十八番だとか。ここでもサブカルチャーを介して、世代間ギャップの埋め合わせが行われていました。

 私自身、大学院では「記憶」が研究上のキーワードの一つでした。戦後ポーランドの知識人の代表として、アンジェイ・ヴァイダ(Andrzej Wajda)やクシシュトフ・キェシロフスキ(Krzysztof Kieślowski)について論考しました。例えば、「戦争の記憶」の類、即ち国家や社会による「公式の記憶」はどこの国でも、程度の差はあれ受け継がれています(日本の若者の中には怪しい人もいますが)。しかし、ファッション・歌・映画・アニメーション・ドラマ・ブームなどの社会現象等々、流行の類となると、世代が違えば記憶はほとんど継承されていません。しかし、21世紀に入り、ポーランドで70年代(1970年代)ブームが起こった時、その担い手は当時の子供や若者であった中高年層だけでなく、今の若者の間にも広がりました。70年代のファッションや生活様式が彼らの目には新鮮であったからです。懐かしさを動機とする中高年層とは違っても、70年代ブームを担うという点では同じです。70年代のポーランドは、エドヴァルド・ギエレク(Edward Gierek)を党第一書記とし、西欧からの借款により、ポーランド人民共和国(社会主義)時代としては例外的にモノが豊富にあった時代です。

 私は歴史教育に携わり、現代史研究に関わる者の端くれとして、「遠い記憶、近い歴史」が重要であると考えています。「少し古い現代・少し新しい歴史」と換言することもできます。現代に生きる我々、特に若い世代にとり、自分が生まれた頃、或いはその少し前や逆に物心がつくまでの時代は、どうしても記憶がありません。同時に歴史の流れからすると、そのような時代は、一番新しい時代であり、授業で扱う際も最後になりがちで、歴史学・歴史教育においてとりあげるにしても、文献資料が未公開であるとか少ないとかといった理由で障壁が少なくありません。このような時代を私は「先行世代にとっては自身の人生の一部として記憶され、後継の若者世代にとっては一番新しい歴史として資料を通して学ぶ歴史」という意味で上記の「遠い記憶、近い歴史」と勝手に名付けて呼んでいます。

 このようなことを私が考えるようになった端緒は、勤めて2年目の二学期末、職員室で同僚の大ヴェテランが高3日本史の最後の通常授業を終え、「第二次世界大戦まで入った。後は歴史ちゃうから、ええやろ」と言っているのを聞いたからです。彼は勤務校の1期生(私は私学の教員で、大学卒業以来、今の勤務校で24年間教員をしています)で、学徒出陣による徴兵、シベリア抑留を体験した、正に歴史の生き証人とでも呼ぶべき人でした。彼の言葉には重みがあり、傾聴に値します。この世代間ギャップを何とか歴史研究や教育に活かせないと思い始めました。

 東中欧史をテーマとした大阪大学歴史教育研究会の2006年4月の例会でも、ある高校の先生から「1989年の東欧革命・民主化を、当時は生徒とともに固唾を呑んで見守っていた。今の子供達にその当時の雰囲気・空気をどのようにして伝えたらよいか」という質問を受けました。それに対して私は以下のように答えました。

 89年を、それだけで説明するのではなく、90年前後が戦後の体制崩壊の時期と世界史的に位置付けることが大切である。その上で、同年6月4日の天安門事件(国際秩序における中国の不安定要因化)、翌年に始まる湾岸危機と戦争(イデオロギー対決からナショナリズム衝突の時代へ)、ドイツ統一(西による東の吸収)、91年のソ連崩壊(ヤルタ体制の崩壊、「ヤルタ」から「マルタ」へ)、やや遅れるが日本における細川非自民政権誕生(55年体制の崩壊)などを説明すれば生徒も、その時代が一つの歴史上の画期点であったことを認識できる。ブッシュSr.がイラクのフセインにクウェートからの撤兵を求め、その期限が切れ開戦が現実のものとなろうとした91年1月、当時の高1のある生徒が「先生、こんな時に授業をしている場合じゃないですよ」と体よく授業進行を妨げようと叫んだ。私は「嘗て福沢諭吉は、上野で彰義隊が戦っていた時にある塾生が『先生、こんな時にウェーランドの経済書なんか読んでいる場合ではありません』と訴えた時、『日本に慶應義塾のある限り知性の源泉は絶えることはない』と戦時であるからこそ、目先の戦いに囚われず長期的視野に立ち学問に打ち込むことが国家百年の計から見れば正しいのだと説いた。諸君も今、世界史を勉強することが必要なのだ」と授業を始めた。因みにこの時、世界の耳目が湾岸に集まっている隙をついてソ連のゴルバチョフはバルト三国に軍を送り込み、独立運動を鎮圧する「ソ連版『血の日曜日』」と呼ばれる事件が起こった。目先の問題だけ考えていてはいけないという教訓が図らずも証明されることになった。今時の高校生に「授業の邪魔をするならば、せめてこれくらい気の利いたことを言え」と叱責する。このように外国の出来事であっても、当時の私自身の体験に基づくエピソードを紹介するだけでも生徒の食いつきは違ってくるのではないか。


 自身の授業の拙さを棚に上げて偉そうなことを言ってしまいました。しかし、最初の台湾現代史の二人(郭源治とテレサ・テン)に見られるような世代間ギャップを埋め合わせる例もあれば、そのギャップを逆手にとって授業に活用することも可能でしょう。

 オーラルヒストリーの手法として聴き取り調査があります。その具体例として、戦争体験者への聴き取り調査を課すことが初等教育や中等教育でもあるかと思います。戦争体験ではなくとも、先の例のような親世代と子供世代の世代間ギャップがありそうなテーマについて聴き取り調査をさせることも可能です。聴き取りという二つの世代を結びつける作業が重要であり、子供達も普段の家庭ではコミュニケーションが取りにくい親とも「授業の課題」として話すことになります。その聴き取り調査結果を報告させることで、「親世代」と一括りに言っても10年~20年くらいの年齢差があり、それによって返答も違ってくるはずです。よく1951年生まれの同僚が「私は『20世紀後半生まれ』であり、そういう意味では今の中高生と同世代だ」と強弁していたのを思い出します。詭弁のようにも聞こえますが、現代史・同時代史を研究・教育する者として、(1年はオーバーですが)5年や10年の違いは世代の違いを生むかも知れません。

 正にとりとめもない話となりました。問題を提起しておきながら、特に対処法や処方箋を示したわけでもありません。ただ現代史・同時代史の研究・教育に関わる者として、常に問題意識として頭と心のどこに掲げています。時として忘れがちになりますが、このような書く機会を与えてもらうことで、再認識できました。ご担当の方に、この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。(文責:置村公男(六甲中学校・高等学校))

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歴史教育にbig pictureは必要か?

今回の記事を担当する特任研究員の岡田です。
先日,ネットでイギリスでの歴史科目のカリキュラム見直しをめぐる論争についての記事を見かけたので,今回はその話を取り上げてみたいと思います。

話は2010年,保守・自由民主連立政権誕生に伴い,新しい教育相の下で歴史科目のナショナル・カリキュラム(公立校に適用される統一カリキュラム,日本の学習指導要領に相当)の大改訂を行う方針が発表されたことに始まります。その目的は,これまでのディベート中心の考えさせる教科から最低限の歴史的事実を覚えさせることに主眼を置く教科に変えようというものでした。
この発表がきっかけとなり,改訂の是非やどのような歴史が教えられるべきかという問題について,新聞・TVなどのメディアを賑わす一大論争になりました。その論争の主役を担ったのが,『風景と記憶』などの著作で有名なサイモン・シャーマと保守派の歴史家ニーアル・ファーガソンです。
ファーガソンは,近代社会を築いた西洋(特にアングロ・サクソン)の優越とそれを可能にした6つのキラー・アプリケーション(競争原理,科学,財産権と法の支配,医学,消費社会,労働倫理)について,歴史を通じて理解させる必要があると訴えました。
一方,シャーマは,最低限イギリスの子供たちに教えなければならない6つの事件(トーマス・ベケットの暗殺,黒死病と農民反乱,チャールズ1世の処刑,インド統治,アイルランド戦争,アヘン戦争と中国)を取り上げ,現在のイギリスの成り立ちとの関係を意識しながら,イギリスの歴史の正負両面についてエピソード的に生徒に語ってゆく手法を提起し,イギリス国民としての共通の物語を確立する必要があると主張しました。そして最終的には,シャーマが教育相顧問としてカリキュラム改訂に当たることになったそうです。

最初,この話を知ったときには,21世紀のイギリスにしては,随分内向きの議論をしているんだなあ,と感じました。ファーガソンの西欧中心主義丸出しの案は論外としても,ポストモダン的手法を歴史研究に取り入れたと評価されているシャーマ(最近では「英国史」などの映像作品脚本における手腕の方が評価されていますが)が学校教育を通じて国民の共通の記憶を形成することを訴えていることも奇異に映りました。その記事の著者もこうしたカリキュラム刷新の意見について,いずれも特定の歴史像を押し付けるものとして,否定的な立場をとっているようです。
しかし,ガーディアン紙(電子版)に掲載されている両者の主張(Schama, Ferguson, history educationで検索するとすぐに出てきます)を読んでみると,この保守,リベラルの2人の歴史学者が,お互いの内容は相容れないものであっても共にカリキュラムの刷新を訴えている背景には,既存のカリキュラムで教育を受けた子供たちの歴史離れに対する危機感があるようです。
彼らによれば,時代順を無視したテーマ別(トピック別)の議論を中心とする歴史教育(ここで問題となっているのは歴史科目が必修とされる中等教育の第一段階(11-13歳)のもの)のために,GCSE(中学卒業後に受ける全国統一試験)での歴史科目による受験者数が減り,有名大学新入生を対象とした最新の調査で,約7割がボーア戦争の舞台がどこかを答えられず,約9割が19世紀のイギリスの首相の名前を一人も知らない,という結果が出るに至ったといいます(このカリキュラムの下では,チャーチルも教える必要がないのだとか)。
また,本来,文化・民族・宗教的多様性を学習すべきキー概念の一つしているはずなのに,現場では,生徒の出身の多民族状況を考慮して奴隷貿易や植民地統治などを扱う場合にはセンシティブな問題にできるだけ触れないようにする傾向が生じ,結果として現在の多民族・多宗教社会の背景を理解しない青少年を増やすことになる,という問題もあるようです(シャーマ自身もユダヤ系移民の家庭に生まれているので,こうした危機意識を強く持ったのかもしれません)。

日本の歴史教育においてはシステム的には取り入れられていませんが,ディベートの持つ効用は先日の鍵谷さんの記事でも強調された通りであり,また,シャーマやファーガソンが取り上げている歴史離れのデータと既存カリキュラムとの因果関係については慎重な検討が必要かと思いますが,歴史が残したエピソードの魅力と現代につながる歴史の大きな流れを理解させ,議論の土台となるbig picture(大きな見取り図)の必要性を訴える彼らの主張については大いに共感できるところがあります。
現在,欧米では,イギリスの既存カリキュラムのようなテーマ別の歴史教育のスタイルが主流のようですが,必ず通史的理解の欠如の問題はつきまとってくると思います。
『新しい世界史へ』で羽田正氏が指摘している時系列史の持つ危うさ(特定主体の実体化,中心化)や,big pictureそのものも時代によって変化するという点には十分注意をする必要がありますが(その意味でシャーマらに批判されているカリキュラムに基づいた教育実践は非常に先進的で,ある歴史上の事件に対する各時代の歴史家の評価を教材にしたり,パキスタンの提携校との間で,パキスタンの生徒に759年のブリテン島へのヴァイキングの侵略を,イギリスの生徒に712年の現在のパキスタン地域へのアラブ連合軍の侵略をそれぞれ調べさせ,その結果を交換してお互いに読ませる,などといった試みがなされているようです),歴史教育において伝えるべき大きな歴史の流れを追求する努力は続けなければならない,とこの論争を知って改めて感じました。

もちろん,こうした2つのアプローチ(問題提起型のテーマ学習重視と基礎知識の伝達による通史理解重視)は必ずしも二者択一的なものではなく,両者のバランスがとれた教育ができれば理想なのでしょうが,それをなかなか許してくれないのが,試験のあり方と歴史科目に割り当てられた時間数の不足というのは,日本でもイギリスでも同じのようです。(文責:岡田雅志(事務局))

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宗教史を教えるポイント

 事務局員だけでなく、世話役の大学教員も記事を書かせていただくことになりました。トップバッターは代表の桃木です。

 日頃書きたいことは自分のブログ(ダオ・チーランのブログ・パシフィック)に書いてしまっているので、今回なにを書くか困っていたのですが、先週西田さんが宗教を教える際の問題点についてとても大事な記事を書いてくれたので、それをフォローして、いくつかの教え方(考え方)のポイントを紹介しようと思います。例によって、専門外の分野に関する図々しい知ったかぶりですが。いずれにしても、歴史教育に限らないことですが、宗教と軍事の2領域は、戦後教育が目を背けてきた面があり、当初はそれが当然だったとしても、現在ではその弊害が出てきているように思います。

1.教義や思想だけで宗教を教えてはいけない。
 宗教を教義や思想だけで教えるのは、「政教分離」が当然になった近代になって生まれた「偏見」だろう。別の言い方をすれば、教義や思想で宗教を理解するのはインテリのやることで、庶民の信者がみんなその宗教の教義をきちんと理解しているなどということはありえない。現在の歴史の学習目的が19世紀的なインテリの教養の習得ではない以上、教義偏重の教え方は是正されるべきだろう。一例をあげれば、近世東アジア諸国に共通の特徴として、「儒教の大衆化」がおこっている。「ムラの儒教」や「町人の儒教」が成立し、ついでに言えば儒教が想定するような父系家族・親族制度や婚姻制度が庶民の間まで一般化したのだ。そのことを教えない一方で「性即理」「心即理」などという超ムズカシイ理屈を暗記させるような世界史教育は、はっきりと間違っている。

 では前近代の宗教とはなんだったか。それは広い意味では一般に、生活のすべてである(そこでは死後の魂の救済だけでなく、「現世利益」を願うのも。異常でも何でもない当然の行為である)。宗教が生活のすべてであるのは、ユダヤ教やイスラームについてだけではない。もちろん、王権との関係、他の宗教との関係などがあるから、特定の宗教が実際に社会生活のすべてをカバーすることはめったになく、中国の「儒仏道+民間信仰」、日本の仏教と神道のような「分業」もふつうにおこなわれるのだが(イスラームですら生活のすべてを実際にカバーせず、「啓典の民」に限らない異教徒の存在を不可欠としていることは、今や常識だろう。今月の歴教研月例会での、暦に関する院生報告もそれを明示するはずである)。ついでに言えば、一神教が正常で多神教はおかしいような言説(それの亜流が一神教を基準にするがゆえに成立する「神道は宗教でない」という言説)もよく見られるが、まったく根拠のない偏見にすぎないばかりか、日本を含む現代の多神教社会のあり方を見えなくする点で完全に有害である。

 狭い意味での宗教についても、大事なのは教義そのものよりも、冠婚葬祭とか年中行事などの儀礼であることが多い。たとえば儒教では、「仁」とか「孝」など思想を持っているだけでは意味がなく、態度・行動にあらわさねばならない。そのルール・パターンが「礼」である。中国哲学の加地伸行教授は儒教とは祖先崇拝だとした。ベトナムでは儒教とは「三綱五常」つまり人間関係の原則だと教えているようだ。

2.前近代=宗教、近代=科学と単純に二分はできない
 イスラームの学問がヨーロッパ近代科学成立の重要な前提になったという話が示すとおり、前近代の人々がひたすら迷信の中で生きていたわけではないのは当然だ。

 では逆に、近代人は宗教に関係なく生きているだろうか。あるいは現代社会の理解に宗教の知識は無用だろうか。そう考える人はたいてい、近代西欧のプロテスタント社会を「正しい近代社会」と考え、同じキリスト教でもカトリックや正教は遅れたものと考えている。しかしその考えは、プロテスタントの宗教心を軽視する点でそもそも間違っているし(19~20世紀の世界では、プロテスタントが猛然と布教活動をしているし、有名な科学者でも篤い信仰心をもつ人は少なくない)、かりに西欧社会がある程度理解できたとしてもアメリカ合衆国が理解できない。「進化論を否定し天地創造を今でも信じている人たちが動かす超近代的国家」アメリカを理解するには、宗教(キリスト教)のより複眼的な理解が必須である。庶民はもちろんインテリでも(もしかしてインテリこそ)科学や人智をこえた現象――自然界以上に、人間社会にはそうした現象が満ちあふれている――がなくならない以上、宗教から離れられないのではないか。カルト宗教にひっかかるエリート大学生があとをたたないのは、そういう面にフタをしてきた教育の弊害だろう。

3.宗教組織を総合経営体として教えねばいけない
 主要宗教の宗派や教団のことは、歴史教育でそれなりに教えられている。しかし、通常それは宗派対立や宗教戦争などのマイナスイメージをともないがちである。だが、とくに国家組織や各種のコミュニティが未熟な(個人の自由がないからといって国家や共同体が「強かった」と短絡してはいけない。それは多くの場合、宗教の力を借りねば維持できない「弱い」存在だった!)古代・中世にあっては、宗教組織の多様な役割は社会・国家の維持・発展に重要な意味をもっていたのだ。

 宗教は教義だけではないと書いたが、それにしても宗教教団の中にはたいていものすごいインテリがいる。たとえば古代のムラ社会で、貴族の家柄などに属さない「神童」がいたら、お寺や教会に送って勉強させたのではないか。王家や貴族でも、次男以下や女子なら同じことがあったろう。中国のように官僚組織が高度に発達していればそこがインテリの受け皿になるが、そうでない社会では、多くのインテリが宗教教団(たとえば修道会)に属することになる。そこで「スコラ哲学」「朱子学」など宗教・思想面に限らない、さまざまな学術が発達することになる。仏教経典の漢訳をした僧侶、アジアに来たイエズス会の宣教師などは、語学の天才揃いだった。日明貿易の通訳など中世日本の外交を禅僧が担ったのも同じ理屈である(その最後が毛利家・豊臣政権の外交僧安国寺恵瓊と、徳川家康の外交顧問の金地院崇伝。その後幕府の外交機能は、儒学の林家に奪われた。近世日本における仏教の後退――「葬式仏教化」の重要な一コマである)。

 宗教は王権や世俗社会との関係で、自分を飾る美術・建築や、また儀礼などを必要とする。そこで、その時代を代表する美術作品や芸能は、世俗社会でなく宗教教団に属することになりがちである。

 宗教者は生産活動には携わらない場合が多いが、しかし食わねばならない。世俗社会の側でも、そうした宗教者を「食わせる」つまり土地や財物の寄進することが、来世の幸福だけでなく現世での自分の威信を高めるから、積極的に寄進をしたり宗教儀礼のスポンサーになる(儀礼に動員された平民や奴隷は、酒食の振る舞いにあずかるだろうし、救済の可能性も与えられるから、儀礼は公共事業の意味を持つ。他方、儀礼が芸能・娯楽の発達につながることも当然である)。教団側にも、もらった土地や庄園の経営、儀礼などのマネージメントをする専門家が置かれることがよくある。寺院が金貸し(社会に必要な職業)を営むことも珍しくない。

 もうひとつ、近代資本主義のエートスが浸透する以前には、権力者であれ商人であれ、他人との取引で悪どいことをするのは当たり前だった。しかし神様や仏様の前ではそれははばかられる。寺院の境内などで市が開かれることがよくあったのは、イスラームなどで敬虔な信徒である商人が布教に活躍できたことと同様、世俗の人々には期待できない公正な取引がおこなわれたからである。中世日本では、海上商業の発達とともに、港町に禅宗ネットワークが広がった。

 宗教組織は、教義にもよるが自分と自分の土地や財産を守るための武力をもつことも珍しくなかった。少林拳のような武術が寺院で発達するのも、別におかしなことではない(それは他方で、不老長寿の追求などによる健康法の発達ともつながる)。中世前期(院政~南北朝期)日本の権力構造のモデルとして黒田俊雄氏(当時阪大教授)が唱えた「権門体制論」は、公家、武家、寺社のそれぞれが(内部には複数のグループをかかえる)荘園などの経済基盤と独自の軍事力をもち、ゆるやかに連合する姿を描いたものだったが、古代・中世の世界では、そうした「総合経営体」としての宗教組織は当たり前の存在だったのだ。「宗教改革」など近世以降の動きは、それを解体し、世俗国家の側だけにすべてを取り込もうとするものだった。(文責:桃木至朗(研究会代表))

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携帯電話に関する校則にたとえて

今回は、研究員の後藤敦史が記事を担当します。

さて、今年の7月、大阪府立のある高校の先生(歴史教育研究会にいつもご参加くださっている先生)からご依頼をいただきまして、同校にて「出前講義」を行ってきました。

ネタは、自分の専門である幕末の「開国」について取り上げました。
タイトルは、
「日米和親条約は200年以上続いた鎖国を崩したか??」
です。

※その内容については2008年の第26回大阪大学歴史教育研究会でもお話したことがありますので、研究会HPに掲載されているレジメをご参照ください。

教科書や参考書などでは、日米和親条約(1854年)の締結によって、200年以上続く鎖国体制が終わった、と書かれていることがあります。

しかし、近年、歴史学の研究では、条約を締結した一方の当事者である幕府にとってみれば、別に和親条約で鎖国が終わったわけではない、ということが強調されています。

この点について、高校生の皆さんに説明してきたのですが、表題のとおり、「携帯電話の校則」にたとえてお話したところ、「分かりやすかった」というご感想を参加してくれた多くの高校生からいただきましたので、
ここでもご紹介しておきたいと思います。
近年の「日本開国史」研究の成果をご紹介することにもつながると思いますし、また、歴史学のおもしろさのひとつをご紹介することにもなると思いますので。

前提として、以下、携帯電話の校則を「鎖国」、高校(教師)を「徳川幕府」、生徒会を「アメリカ」と思ってください。

ある高校では、生徒の携帯電話の持ち込みを一切禁止していました。

しかし、その校則を不満に思っていた生徒たちは、生徒会を通じて高校と交渉を行い、ついに、放課後時の利用に限るというルール付で「携帯電話持込可」を勝ち取りました。

このとき、生徒会は、これによって携帯電話持込禁止という校則は崩壊した、と考えました。

ところが、高校教員の側は、あくまでも携帯電話持込禁止という原則を維持したまま、放課後という限定された時間のみ校内で使用することを許したに過ぎない、と判断していました。

つまり、同じ校則でも、生徒会と高校教員側とで、見方がまったく異なる、ということです。

実はこれと同じようなことが日米和親条約にもあてはまります。

条約の一方の当事者であるアメリカは、これによって日本の長きにわたる鎖国が崩れた、と考えました。

ところが、徳川幕府の側では、鎖国体制という原則は維持したまま、箱館・下田という限定された港にのみ入港することを許し、薪水などの供与を認めたに過ぎない、と判断していたわけです。

近年、幕府にとって日米和親条約は鎖国の終焉ではない、ということが強調されているのは、要するに今までの解釈が、アメリカ側からの視点にかたよりすぎていたのではないか、という反省にも基づいています。

こうしたお話から、私は講義の最後に、高校生に対して、同じ「事柄」であっても、見る視点によって見方はさまざま、
だからこそ、
①ひとつの見方にこどわりすぎない、
②つねに他者の見方にも考慮する、
ということを心がけてください、という「説教くさい」お話をして講義を締めくくりました。

それでは、幕府にとって「鎖国の終焉」はいつであったのか、あるいは、「開国」はいつなのか。

これらのテーマは、まさに私が今年6月に提出した博士論文のテーマとも重なっています。
それについては、追々、ご紹介できれば、と思います。


なお、7月の「出前講義」の際には、江戸時代を通じて別に日本は「鎖国」をしていなかったこと、「鎖国」という見方自体も、ヨーロッパ中心的な見方が含まれていること、など、「鎖国」をめぐる研究成果についてもお話してきた、という点を付け加えておきたいと思います。(文責:後藤敦史(事務局))

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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