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Author:rekikyo
大阪大学歴史教育研究会の公式ブログです。
原則として事務局スタッフの記事を中心に週一更新、その他告知や参加メンバーによる投稿等があれば随時掲載します。

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タイの暦

今回の記事を担当する特任研究員の岡田です。
ブログの更新が遅れてしまい申し訳ありません。

いつも私事からで恐縮ですが,おかげさまで,このほど,どうにか博士学位申請論文を提出することができました。情けない話ですが,前回の例会をまたまた欠席してしまったのも,論文執筆の追い込みのためです。院生発表については,プレ発表の時に聞かせてもらったのですが,世界史における暦の問題を社会との関わりから読み解こうという大変興味深い取り組みで,歴史教育においても暦を正面から取り上げる重要性をあらためて感じました。今回はそれに触発されて(便乗して?),タイ(王国)の暦の話を書かせてもらいたいと思います(時間の関係から,東南アジアの暦の話は,あまり触れられていなかったようなので補足の意味もこめて)。

まず,タイ手元にあったタイの中等教育課程の歴史教科書(タイでは6年間の中等教育課程でタイ史を中心においた古代から現代までの世界の歴史を学習します)を開いてみると,最初の第1課「時間と歴史」において,日,月,年といった時間の区切り方が太陽及び月が生み出す自然現象の観察をもとにしていることを確認し,そうした時間を伝える手段として時計(1日),暦(1年)が考えだされたことが説明されます。そして,1年以上に及ぶ人間の営みを把握するために紀年法としての暦が作られ,その社会にとっての重要な事件(宗教,王の事績に関するものなど)が起こった年を基準(紀元)に年が数えられるようになるとして,タイ社会において過去から現在に至るまで使われてきた主要な暦である,仏暦,西暦,ヒジュラ暦,大暦,小暦,ラタナコーシン暦のそれぞれについて簡単に紹介されます。

仏暦は現在,タイの公式の紀年法として用いられているもので,釈迦の入滅したとされる年(西暦紀元前542年)を紀元としています。他にも上座仏教が盛んなビルマ,カンボジア,スリランカなどで用いられていますが,「満」で数えるか「数え」で数えるか(紀元年を0年とするか1年とするか)で国によって1年のズレがあり,タイでは歴史上では両者が混在していましたが,現在の暦は,「満」式を採用しており,基本的には西暦年に543を足せばタイの仏暦年になります。宗教暦としての仏暦は古くから用いられていましたが,国の公式の暦として採用されたのは意外に新しく1913年のことです。暦のシステムとしては,1889年にラーマ5世がグレゴリウス暦を導入してラタナコーシン暦(ラタナコーシン朝成立年(1782年)を紀元とする)を制定して以来,西暦と同じになっています。ラタナコーシン暦から仏暦に変更した理由の1つは,ラタナコーシン暦では,ラタナコーシン朝成立以前のことを記すのに不便ということであり,国民史の創出とも関連していることがわかります。タイの歴史教科書では,当たり前ですが,全ての年代(世紀も!)が仏暦で記されており,外国人は,慣れないうちは苦労させられます。

また,ラタナコーシン暦(グレゴリウス暦採用)以前に用いられた伝統暦が大暦及び小暦です。この2つの暦はいずれもインド式(インドの暦法については説明すると長くなるので省略しますが,矢野道雄『占星術師たちのインド:暦と占いの文化』(中公新書,1992)の説明がわかりやすいと思いますので,興味のある方はそちらをお読みください)の太陰太陽暦なのですが,大暦(カニシカ王が制定したと伝えられる。+78で西暦)は,先に東南アジア大陸部に伝わり,スコータイを含め,プレ・アンコール~アンコール期の碑文に多く使われており(スコータイはタイの最初の王国,王朝とされているが,文化や住民構成の面ではアンコールとの連続性が強い),小暦(ビルマ暦としても知られているもの。+638で西暦)は同じくスコータイと,アユタヤ以降のシャム諸王国,ラーンナー王国,ラーンサーン王国及びビルマ諸王国で使われていました。
1569年にアユタヤがビルマ軍により陥落し,一時ビルマの属国となった時に小暦を受け入れたという俗説がありますが,このようにそれ以前から使用が確認されており,むしろ,より最先端の暦として徐々に普及していったと考えた方がよいでしょう。

説明が長くなりましたが,教科書の記述に話を戻すと,ヒジュラ暦や西暦(タイ語ではキリスト暦)を含めて海外起源の暦ばかりで,それらが入ってくる以前,あるいは一般の民衆が用いていた暦はどうなっているのかという疑問が湧いてこようかと思います。

当然,地域によっても異なってくるのですが,その答えはズバリ「干支年」です。
多くのタイ系諸民族社会は,東アジア文化圏と同様の十干十二支の組み合わせによる干支法を用いて60年周期で年を表す伝統を持っています(いつどのように中国から伝わったのか,あるいは共通の基本文化であるのかについては,定説はありません)。
その一方で,スコータイなど,モン・クメール系の文明を通じて小暦のような絶対年を持つ紀年法(西暦などと同様,1つの紀年と1つの年が1対1で対応する)を受容したところでは,干支法が使われていませんが,代わりに小暦の1桁の数(第一から第十(0)まで)と十二支を組み合わせてやはり60年周期の紀年法が生み出されました。そのため,法令の布告などでは,多くの場合,小暦1110年などと絶対年を記さず,第十の辰の年という表現をしています。これは,当時の人々にとって,意味をもたない絶対年紀ではなく,60年周期の循環年紀の方が生活に根付いていたことを示すのではないかと思います(後世の歴史研究者にとっては前者の方がありがたいですが・・)。
一人の人間の人生の長さを考えても,60年というのは時間をはかるものさしとしてはちょうどよく,○○の年にこの作物を植えるとよく育つなど,ある社会が経験したことをローカルな知識として世代を超えて統計的に蓄積してゆくにもちょうどよいスパンであったと考えられます。そのため,東アジアの干支法と同様,農事や占い,祭りなどと結び付きながら,生活に密着したものとなっていったのでしょう(下の写真はベトナムのタイ族の占卜書です。右側が十二支の記号を記した図です)。
そのため,ラーマ4世(位1851-68,当時西洋の宣教師たちよりも正確に日食の日時を計算したというエピソードで有名な占星術家でもある)が,元日を太陽暦4月15日とし(タイ正月として有名なソンクラーン),太陽暦の12月頃であった干支年の年始め(陰暦1月1日,タイ語でドゥアン・アーイ)を従来の小暦の年始めである陰暦5月1日に合わせた後も,一部の地域では元々の陰暦正月を維持しました。その後,全面的にグレゴリウス暦が導入された後も(年始めについては,当初4月1日だったが,1941年に1月1日に変更された),仏教関連の行事を含め,多くの年中行事は陰暦で日が決まっており,現在の暦も陰暦(及び中国暦)が併記されています。院生発表で紹介された日本の旧暦の事例でそうあったように,お上が民衆の生活時間を支配するのは,そう簡単ではないようです。(文責:岡田雅志(事務局))

ベトナムのタイ族の占卜書(イエンバイ省ギアロで撮影)

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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