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Author:rekikyo
大阪大学歴史教育研究会の公式ブログです。
原則として事務局スタッフの記事を中心に週一更新、その他告知や参加メンバーによる投稿等があれば随時掲載します。

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「歴史教育」の改革とその射程

特任研究員、そして当ブログの管理人の岡本です。
この「阪大歴教研公式ブログ」、約3週間ぶりの更新になります。
本来であれば、毎週月曜日に必ず新しい記事がアップされるはずにもかかわらず、このような体たらくになってしまっていることについて、当ブログの管理人として深くお詫び申し上げます。
記事が更新されていないにもかかわらず、月曜日はとりわけアクセス数が多いのを確認しつつ、密かに心を痛めている次第です。
本来これまでに掲載されるはずだった記事の方は、近日中に順次アップされる予定ですので、広い心をお持ちいただいて、今しばらくお待ちいただけますと幸いです。

さて、今回のテーマですが、前回(といっても3週間前)の岡田さんの記事を受けての、私なりの雑感を書き散らしてみたいと思います。
岡田さんの記事は、最近イギリスで行われた(現在も継続中?)の歴史教育カリキュラム再編をめぐる論争を紹介したもので、日本における歴史教育の問題を考える上で非常に多くの示唆を与える有益な記事でした。
この再編論争の契機となったそれまでのイギリスにおけるテーマ学習重視型の問題提起型アプローチというのは、日本でも一つの理想型として相当の影響力を持つ方向性だと思います。
それだけにこのイギリスの「失敗」とその克服のための議論は、例えば本ブログでも何度か話題に上ってきている「歴史基礎」などの高等学校地歴科改革案を検討する際にも決して無視できないものとなるでしょう。

ただ、私自身が気になったのは、岡田さんがまとめとして述べられている最後の一段落、

もちろん,こうした2つのアプローチ(問題提起型のテーマ学習重視と基礎知識の伝達による通史理解重視)は必ずしも二者択一的なものではなく,両者のバランスがとれた教育ができれば理想なのでしょうが,それをなかなか許してくれないのが,試験のあり方と歴史科目に割り当てられた時間数の不足というのは,日本でもイギリスでも同じのようです。


で、「試験」と「時間数の不足」が「日本でもイギリスでも同じ」問題として挙げられているところです。
もちろんこのまとめ自体には全く異論はないのですが、その一方でこの歴史教育に対する議論のなされ方が、日本とイギリスとでは随分異なるのかも知れない、という気もするのです。


しばらく前になりますが、昨年末に中村薫先生の書かれた記事「「歴史基礎」のその後の状況と問題点について」(これ自体は、その前に中村先生が別の記事へのコメントとして書かれた内容を記事として再編成していただいたもの)に対して、高橋徹先生から「あえての反論」というコメントをいただいています。
その中で高橋先生は、「歴史基礎」を大学入試必修科目にすべきであり、そのことによって「歴史基礎」の重要性を示すと共に高校から大学への歴史教育の連続性を担保することができるのではないか、また「歴史基礎」の内容を充実させていく中で大学入試のあり方にも一石を投じることができるのではないかと述べておられます。
残念ながらこの問題提起に対するレスポンスはまだ本ブログでは出てきておりませんが、この議論は桃木先生のブログの方で引き続き議論されているようです。
  「歴史基礎」と大学入試
  秋入学
  「体育社会科」
  「体育社会科」その2

高橋先生の問題提起に対しては異なる意見もあろうかと思いますが、少なくとも大学入試の持つ強いバイアスを考慮に入れつつ、その影響力を織り込みながら科目再編を進めていかなければうまく行かないという御指摘は全くその通りだと思います。
一時期はもてはやされた「ゆとり教育」なる教育改革がさしたる実効を挙げることなく挫折した原因はいくつかありますが、恐らくその最大の原因は、大学入試という仕組みに過剰に依存する日本の社会構造にほとんど手を加えることなく、高校までの教育現場の中だけを変えればよいとしたその安易な発想に求められるべきでしょう。
「ゆとり教育」そのものの理念や方向性は必ずしも間違っていなかったにしても、結局は旧来のままの大学入試と向き合わざるを得ない生徒たちは、両者の矛盾とその間の空白を、教育制度に対する(さらなる)不信や「詰め込み」への回帰といういびつな形で埋めるしかなかったということではないでしょうか。

そう考えると、大学入試バイアスを組み込んだ議論をすべしという高橋先生の御主張は至極もっともなものだと言えるでしょう。

ただ、これも高橋先生のコメントや桃木先生のブログの関連エントリに出てきている論点ではあるのですが、いずれは大学入試という制度自体にメスを入れなければ、この問題は最終的に解決しないということも確認しておく必要があります。
私自身の個人的な経験を振り返ってみても、テスト偏重の環境下においては、確かにテスト勉強を強いることはできますが、個々の生徒の向学心を育てることは極めて困難だと思われます。
むしろ、そういう環境下では、「テストに出ない(無駄な)ことはやらない」という形での消極的なサボタージュの方が幅をきかせることになることが多くなるようです。
端から見ていると、実はそれこそが学力向上の近道であるにもかかわらず……。

テストによって、学習のモチベーションを担保しようとすることは、逆に言えばテストが終わってしまえばもう学習しなくていいというメッセージを、暗黙の内に共有させる結果になってしまうのではないでしょうか。
その意味では、最近話題になっている大学生対象の「共通テスト」も筋の悪いアイデアで、日本の大学の現状に合わないだけでなく、ごり押しで実施したとしても大学生の学習意欲をさらに減退させるだけの結果に終わるように思えます。

歴史教育の話に戻しますと、歴史教育のカリキュラムを改革すること、大学入試に多くを依存する構造を組み替えることは確かに重要です。
しかし、その手段としても、またその目的としてもより重要なことは、「歴史教育」が現在の日本社会にとって一定の重要性を持つという認識を、歴史学/歴史教育の関係者だけでなく広く社会一般の中で共有することなのではないでしょうか。
当然、時間の制約もありますから、そこで合意される歴史教育の内容は、最大公約数的な必要最低限の内容がベースにならざるを得ないでしょう。
その代わり(といっては何ですが)、その必要最低限の歴史教育の内容を生徒達に学習させることについては、大学入試の実績よりも、もちろん部活の成績などよりも大切なことであるという認識を、教師も親も、その他の大部分の「大人」たちも共有することが重要なのではないでしょうか。
そういう環境を整えてこそ、初めて生徒達も学習すべき重要な内容として歴史に向き合うことができるはずです。

そのように考えると、実は「歴史教育」の内容を発信するべき対象は、歴史学を専門とする研究者や大学院生、歴史を教える教員、歴史を学ぶ生徒といった直接の利害関係者だけに留まるものではないということになります。
むしろ、「歴史教育」イコール暗記科目、受験が終われば用のないものと考えているであろう、大多数の「大人」たちにこそ、「歴史教育」の持つ意味やその重要性を発信しないと、現状を打開することはおぼつかないのではないでしょうか。

一応、そういうことも考えてこのブログを立ち上げたのです……というのは、さすがに後付けが過ぎますかね。
イギリスでの事情については、正直ほとんど理解していないのですが、この歴史教育をめぐる合意形成の構造という点では、日本とは随分異なるであろうという推測は、恐らく大きく外れていないように思います。
ただ、いずれにせよ、本気で歴史教育を変えたければ、まず歴史教育をめぐる社会的合意形成を目指さなければ、結局は「ゆとり教育」の二の舞に終わるだけのように思えてなりません。
そう考えると、下手な小細工に頼らずひたすら科目としての社会的有用性を高めることに注力する「歴史基礎」の試案は、むしろ正鵠を得たプランといっていいのかも知れません。
やはり正攻法が一番確実な方法だと私は考えるのですが、如何でしょうか。(文責:岡本弘道(事務局))

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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