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rekikyo

Author:rekikyo
大阪大学歴史教育研究会の公式ブログです。
原則として事務局スタッフの記事を中心に週一更新、その他告知や参加メンバーによる投稿等があれば随時掲載します。

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「実際に見て」学ぶことの重要性

 皆様、大阪大学歴史教育研究会公式ブログにお越しいただき、ありがとうございます。早いもので、2012年も2ヶ月が過ぎました。こうして人間歳を取るんだなぁ、と実感する今日この頃ですが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?
 今回は、特任研究員鍵谷寛佑が記事を担当させていただきます。
 もう五回目の記事になりますが、今回も、どうぞよろしくお願いいたします。

 今回の記事は、「実際に見て」学ぶ、ということの重要性について触れたいと思います。
 勤務先中学校での世界史の授業で、よく生徒から、「先生そこ行ったことありますか!?」とか「実物見たことありますか!?」とよく聞かれます。
 図説で「この作品はこういうものです」と説明しても、彼らは常にある種の「リアル」を求めてきます。中学二年生ということもあって、色々なものを「生」で感じたい年頃なのでしょう。そこで、私も答えられるだけの知識を出さなければ、と日々色々なネタを模索するのです。

 歴史に関するテレビ番組や、旅行に行った際の現地での情報収集などなど、出来ることは沢山あります。そういった日々培ったネタを授業で披露することで、彼らの歴史に対する興味をより一層熟成させることができると思います。
 私がロゼッタ・ストーンの実物を大英博物館で見て、その大きさに驚いた話をした際には、「教科書のものは小さいですよ!」と素直な感想を返してくれました。
 また私がイギリス生まれだという話をすると、「えー!マジですか!?」「ハーフですか!?」と(私をご存知の方は、どうみても私を日本人だと思われるでしょう。実際に、父も母も日本人です)、驚きの眼差しを向けてきます。
 生まればかりはどうにもなりませんが、我々教員が実際に見て知ったことは、彼らの求める「リアル」そのもので、私はそういったものを大事にしたいと思っています。

 先月の出来事で、この点をより強く感じさせられました。
 先月のある日、私は、都市空間の研究をされている大学教員の方と、新今宮の町を細かに練り歩く機会をいただいたのです。新今宮を詳しくご存じの方々には、察しが付くかと思います。日々の生活の中では決して感じることのできない、社会の暗い側面を映し出している地区を横切り、対照的に一見とても華やかで我々を魅了するにもかかわらず、恐ろしく深い闇とつながっている、男性にとってのあの「絶対空間」にたどり着くわけです。
 「地理を研究する人間は、歩いてナンボ」と言われましたが、これは当然歴史にもかかわる重要な点です。あまり、生徒たちには社会の「ダーク」な部分を教えるわけにはいきませんが、実際に自分で見て知っていることは大きな財産であり、様々な場面で役に立つハズです。教員は、なかなか時間をつくることが難しいと思いますが、そうしたまだ見ぬ部分を体験してみる機会を作ってはいかがでしょうか?(文責:鍵谷寛佑(事務局))

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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コメント

大阪大学歴史教育研究会では、歴史教育の重要性を訴えてるけど、肝心の大阪大学2次試験では、文系学部は、文学部と外国語学部しか地歴が課されないのはお粗末なんじゃないですか?偉そうなこと言うわりに、お膝元の法学部、経済学部や人間科学部がまともに地歴の試験を課さないのは、大阪大学歴史学研究会としてどう考えているのでしょうか?

コメントありがとうございます

石崎勇心さん、コメントいただきありがとうございます。
御指摘いただきましたように、歴史教育の問題を考える上で大学入試における歴史科目の扱いは重要な論点になると思います。
大学入試の試験科目に歴史科目を入れることによって、歴史教育が重要だという認識を制度的に保障するという考え方も、もちろん一つの考え方としてあり得るとは思います。
ただし、大阪大学歴史教育研究会の活動の趣旨は、決して大学入試における歴史科目のプレゼンスの向上にあるわけではありません。
むしろ、旧来の歴史理解の枠組みや入試対策偏重によっていびつになった歴史教育のあり方を少しでもよりよい方向へ、これからの社会を生きる人々にとって有意義な内容に変えていくための方策を考えるのが主な目的です。
そういった意味では、まず大学入試で歴史の試験を課すべきであるとか、あるいは課さないことがお粗末であるとかいったような、大学入試を判断基準にして歴史教育を語るような発想や感覚こそが、我々にとってまず変えていくべき部分になると考えております。
以上のような大阪大学歴史教育研究会の活動の趣旨を汲み取っていただき、今後とも有益な御意見を頂戴できれば幸いです。

詭弁に聞こえる。

>大学入試を判断基準にして歴史教育を語るような発想や感覚
といいつつ、桃木先生などは、よく、世界史の出題がどうだとか言っているが。実際に、大阪大学文学部の世界史の出題は他の大学に類を見ない随分と偏った出題をしている点からも、そういう意図を汲み取れる学生を集めたいと思っているのではないだろうか。そう考えると、あなた方は、大学で勉強するための入試を一つの判断基準にすることも重要だと意識的にか無意識的にか考えてしまってるように見えるんだが。

なぜ詭弁に聞こえるのかはわかりませんが……

江田さん、コメントいただきありがとうございます。
私の、石崎勇心さん宛のコメントに対して「詭弁に聞こえる。」とお感じの御様子ですが、江田さんのコメントを拝読した限りでは、一体どの部分が「詭弁」なのか、あまり明確に指摘していただいていないように感じました。
とりあえず、“桃木先生などの発言を見る限りでは、まず変えていくべき部分としている「大学入試を判断基準にして歴史教育を語るような発想や感覚」に実は阪大歴教研のメンバーも囚われているのではないのか”、という御指摘として受け止めることとしますが、その場合、そこには恐らくいくつかの誤解があるだろうと思われます。

まず、大阪大学歴史教育研究会では、一貫して「旧来の歴史理解の枠組みや入試対策偏重によっていびつになった歴史教育のあり方を少しでもよりよい方向へ、これからの社会を生きる人々にとって有意義な内容に変えていくための方策を考える」ことを目的に、これまで約6年余りの間、活動して参りました。
これについては、阪大歴教研のウェブサイトの「研究会の概要」とそこから張られているリンク先の文章などを御覧いただければおわかりかと存じます。
また、同ウェブサイトの「活動記録」には、これまでの報告タイトルや多くの報告資料が公開されており、その内容を御確認いただければ、ほとんどの報告において歴史教育を語る際に「大学入試を判断基準にして」などいないことも御理解いただけるはずです。

一方で昨今の日本の高等学校における歴史教育の実情をみますと、少なくともカリキュラム上では世界史が必修となっているにもかかわらず、世界史を含む歴史科目で大学入試に望む受験生はむしろ少数派です。
一学年で約110万人の高校生に対して、センター試験で世界史A/B、あるいは日本史A/Bを選択して受験する受験者は、浪人生を含む全受験者数でも約25万人に過ぎません。
このような状況下で「大学入試を判断基準にして歴史教育を語るような発想や感覚」を是とするならば、大学入試とは無関係に世界史を履修する大多数の高校生の存在を完全に切り捨てることになってしまいます。

つまりは、阪大歴教研のこれまでの活動からみても、歴史教育の現状からみても、江田さんの御指摘は誤解である、といって差し支えないわけです。
もちろん、それでも大学入試の持つ社会的影響、歴史教育の現場に与える影響はやはり大きなものがあります。
桃木先生の発言にしても、そのような現状認識を踏まえたものでしょう。
しかしながら、それは上記の目的を実現する一手段として、あるいはその遂行に大きな影響を与えるファクターとして言及されているに過ぎません。
目的と手段・ファクターを取り違えることなく、元々の発言の趣旨に沿って御理解いただけますと幸いです。

ところで、江田さんは「大学入試を判断基準にして歴史教育を語るような発想や感覚」に対して、どのようなお立場で御発言されておられるのでしょうか。
このような発想や感覚を是とされるのか、あるいは変えるべきものとみなしておられるのか、是非とも御意見を拝聴したいと思います。

大学入試を判断基準に議論しているかもしれない者として

 『「実際に見て学ぶこと」の重要性』から始まった議論を拝読する内に、1つ意見を寄せてみたくなりました。
 私は、本ブログに、かなり大学入試と歴史教育の関係にこだわったコメントを何回も投稿しています。それは直接には、国公立大学進学が中心の高校で、しかも地域の国公立大学が悉く二次試験で地歴公民を出題しないという環境の中で、所謂五教科の中の地理歴史公民というより社会科の立場の弱さをいつも実感させられているからです。また、3年6月までは部活動一色の生活を送ることが当然で、それを前提として、最も効率よく現役で国公立大学に合格したい生徒たちと共に過ごすことが日常であることにもよります。「大学入試を判断基準として歴史教育を語るような発想や感覚」の歪みはわかっているのですが、現状では、積極的に異文化とのコミュニケーションを行って討論の上に合意を形成する人々に育ってほしい学力層の高校生が全く世界史を学ぶことなく社会に出てしまっています。こういった現状を改める手段として大学入試を考えてしまっていることは確かです。もっとも、大学入試問題は高校教育に何を期待するかを伝えるメッセージとして捉えるならば、「大学入試から歴史教育を語ること」は非常に意義あることになるはずです。勿論現状はそんな理想を語れる状況ではありません。だからこそ大阪大学歴史教育研究会では、広い視点から高校や大学の歴史教育のあり方を問うておられるのだと理解します。そして管見のところ、大阪大学の世界史入試問題は、研究会で語られる「現状をどう変えていくか」の方向性に沿っているといえます。江田さんは「随分と偏った出題」と論断されていますが、ではとのような出題傾向なら「不偏」であると判断されるのでしょうか。少なくとも、中国史やヨーロッパ史に大きく偏在した旧態依然たる出題を指すわけではないでしょう。(歴史学の動向に無関心な他教科教員は、旧態依然たる方が生徒の負担が少なくていいのではないかと平気で言ってきます。)

メッセージとしての大学入試

高橋先生、コメントいただきありがとうございます。
先生のこれまでのコメントの真意、つまり歴史教育の現状を打開する突破口の一つとして大学入試の問題を論じておられることはもちろん承知しているつもりです。
また、「大学入試問題は高校教育に何を期待するかを伝えるメッセージとして捉えるならば、「大学入試から歴史教育を語ること」は非常に意義あることになるはずです。」と仰る部分には、全面的に同意いたします。
実は先生が「江田さんは「随分と偏った出題」と論断されていますが、ではとのような出題傾向なら「不偏」であると判断されるのでしょうか」と問いかけておられる論点も、実は上のコメントで触れるべきかどうか少し迷ったのですが、触れてしまうとあまりに長い文章になってしまいそうで、結局省略してしまいました。
というのも、本当の意味で偏りのない歴史像・歴史観というものを考えることができるのか、ということ自体が歴史学/歴史教育にとっては大問題で、このことを簡潔にわかりやすくコメント欄で書き尽くす自信がなかったからです(もちろん高橋先生やこのブログをお読みの方の大多数には先刻承知のことでしょうけれど)。
まして、様々な制約のある入試問題で「不偏」の出題を要求することは、正直無理があるのではないかというのが、私個人の見解です。

とはいえ、既に高橋先生も御指摘のように、「大阪大学の世界史入試問題」が「中国史やヨーロッパ史に大きく偏在した旧態依然たる出題」よりも偏っているという見方に対しては、やはり強い違和感を覚えざるを得ません。
上に書かれた江田さんのコメントを拝見する限りでは、後者の方が依然として多数派であることを論拠に、前者を「随分と偏った出題」と判断しておられるようですが、近年の歴史学や歴史教育に関する議論を踏まえれば、むしろ後者の方に問題があると思われます。
そう考えますと、この「多数派」である大学の教員たちにこそ、もっと強く変革を求めていかなければいけないのかも知れません。

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