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rekikyo

Author:rekikyo
大阪大学歴史教育研究会の公式ブログです。
原則として事務局スタッフの記事を中心に週一更新、その他告知や参加メンバーによる投稿等があれば随時掲載します。

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歴史は暗記科目か?

前回のエントリの最後に、

この他、穴埋め形式・暗記推奨の是非についての問題は、8月5日(金)に札幌で開催された北海道の方の研究会でも話題になりましたので、また改めて考えてみるつもりです。


と書きました。
この問題については、神奈川の研究会・北海道の研究会の両方で議論になっていますし、入試制度との兼ね合いもあって容易に結論の出ない問題であるとは思います。
また、特に優秀で歴史に対する関心の高い高校生が多数参加した神奈川の研究会では、むしろ生徒の方が穴埋め形式・暗記スタイルを好む傾向にあるということも話題になっていたと記憶しています。

率直に言って、一般的社会通念としては、「歴史は暗記科目」という認識が広く共有されているように思われます。
このこと自体は非常に残念なことですが、そういった認識そのものに異議を唱えたところでどうにもなりません。
歴史をどのような科目として扱えばよいのか、どのように教えれば/学べば人生を、社会をより豊かに生きることができるのか、阪大歴教研のような活動を通じて具体的な方法を提示し、理解の輪を広げていくことこそが必要だと考えます。

この手の話題を耳にするとつい思い出す、個人的には非常に苦い思い出があります。
「私は高校の授業の中で、歴史が一番嫌いだったんです。」
結婚して間もない友人と会った時の、彼の奥さんが発した言葉です。
私が歴史学の研究者であると名乗った後、その言葉に続いて歴史の時間が来る度に苦痛だったとか、暗記させられるのがたまらなく嫌だったとか、卒業して何が嬉しかったって歴史の勉強をもうしなくていいというのが一番嬉しかったとか、とにかくしばらくの間、如何に歴史の授業に苦しめられたか、堰を切ったように話が続いてゆきました。
私の友人自身はむしろ歴史大好きな人間でしたから、そちら方面の話に花が咲くのを未然に防ぐという意味合いももしかしたらあったのかも知れませんが、私としてはもう、被告席に立たされている被告人の心境で、ひたすら耐えるしかありませんでした。
もちろん私が悪いわけではないのですが、歴史という科目が恐らくは組織的にそういった生徒を大量に生み出してきたことは確かである以上、道義的な責任を引き受けないわけにはいきません。
そういうことがあったからというわけではないのですが、その後その方とは会う機会もなく、それゆえに余計重苦しい記憶として、今でも私の心の中に深く刻み込まれています。

実のところ、私自身は幸いにして、「暗記科目」としての歴史の授業を受けたことがありません。
ここが重要だから憶えておくように、といった先生の言葉を聞いた覚えもほとんどありません(「イスラーム歴代王朝変遷表」が唯一の例外でしょうか)。
子供の頃からひときわ物覚えが悪く、暗記系のテストでは毎回悲惨な点しか取れなかった私のような生徒が、もし「暗記科目」としての歴史の授業を受けていたら、間違っても歴史学研究を志すことはなかったでしょう。

歴史を「暗記科目」として学ぶことのできる優秀な高校生は、ある程度はいるのだろうと思います。
一般に言われるように記憶力がピークに達するのが10代後半から20代前半であれば、歴史の教科書を一冊丸ごと暗記することも不可能ではないのかも知れません(私には到底無理でしたが)。
しかし、そうやって歴史でいい成績を取った高校生に、「何のために歴史を学ぶの?」と聞いた時、どれほど意味のある答えが返ってくるでしょうか?
もしかしたら一部のとりわけ優秀な高校生は、その模範解答も含めて「暗記」しているのかも知れませんが、それが「暗記」である限り、実感のこもった答えにはならないでしょう。
そもそも、「暗記」で覚えた内容のほとんどは、程なく忘却の彼方へ飛び去ってしまうものです。
内容のほとんどを忘れた後、残るのは「暗記」をした、させられたという記憶だけです。
そうなれば、今の社会を生き抜く上で歴史なんて学んでも何の役にも立たないという評価が下されるとしても、決して不思議なことではないでしょう。

実際には、歴史は決して暗記科目ではない、ということは、阪大歴教研に参加されている先生方やこのエントリをお読みになっている方々のほとんどには周知のことだと思います。
歴史を学ぶということは、自分たちの社会の成り立ちを知る、世界の起源とその変遷過程を知るということ以上に、過去と対比することによって、それまで気付かなかった現在の有り様を相対化し、将来の展望を描くための手がかりを得ることではないでしょうか。
歴史を学んだからといって、決して「正しい答え」が手に入るわけではありませんが、自分の立ち位置を見失った時やどうしたらいいかわからなくなった時、判断の基準や目安を歴史から得ることは可能です。
もちろん過去の社会は現在の社会とは前提条件も違えば価値観も社会環境も異なるわけですから、そのまま過去の事象を現在に当てはめてもうまくいかないことの方が多いはずです。
だからこそ、そういった現在とは異なる諸条件を織り込みつつ過去の歴史を読み込む技法を身につけることによって、少なくとも理論上は歴史に描かれる全ての人の経験を自分のものにすることができるわけです。
自分一人の個人的経験と人類全体の歴史的経験。
未知の将来と立ち向かうのにどちらの経験を踏まえるのがより有利か、考えるまでもないことのように思えます。

先月の神奈川の研究会では、「現在の有り様を相対化」すること、「将来の展望を描くための手がかりを得ること」に重点を置いた模擬授業がいくつも行われ、受講していた高校生の大部分にも伝わっているように見受けられました。
あとはそういった授業を当たり前のものにしていくために、どのような環境をつくるべきか、どうやって通常の授業実践に結びつけていくか、そういった認識をどうやって共有していくか、などが今後の課題になるでしょう。
その中で、「穴埋め形式」の教材を用いたり、一部の事項について「暗記」に委ねるという選択自体は、必ずしも排除されるべきではないと思います。
ただ、歴史という科目イコール「暗記科目」という認識は、その社会的価値を見失わせ、同時に多数の「歴史嫌い」を量産し続ける要因となる以上、変えていくべきだと考えます。

少しでも早く、歴史が暗記科目でなくなる日が来ることを願いつつ。
                            (文責:岡本弘道(事務局))

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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コメント

暗記を意識する前に歴史を好きになったものとして

今回のブログも興味深く読ませてもらいました。
 私は東北地方の公立高等学校の教員です。自分の少年時代のことを思い出してみると、暗記を意識する前に歴史が好きになっていました。世界史との出会いは、小学校の時に、実家にあった百科事典の資料編の「パノラマ世界史年表」を、毎日のように眺めていたことでしょうか。今も同種のものは、世界史の資料集によくありますが、私が夢中になったものは、古代におけるローマ帝国の領域を示す帯のものすごい幅広さや、古代から現代に至るまで連綿と続いている中国諸王朝~現代中国の連続性でした。また、その年表の現代部分では、最も領土か広い当時(1970年代中頃)のソ連が、それほど幅広くありませんでした。帯の広さは領土の広さと正比例していない、では何が基準なのかな?と、飽かずながめながらいろいろ考えてみたものでした。現在教員として高校生に世界史を講じていますが、そういった全体を見る目を養うにはどうしたらいいかと思案を重ねる一方で、現実には大学入試対策(殆ど大学入試センター試験の世界史B対策です)に追われ、何かと暗記を求めていることが実情です。生徒の方も、受験対策として最も労少ないことを求めようとして、私が巨視的な目でみることの大切さを説いたり、歴史のおもしろさを伝えようとして挿話を語っても、無関心な者が多いという有様です。他教科と違って、地歴公民か殆どの国公立大学入試ではセンター試験でお終いというのが問題です。どんなにただ暗記しただけでは解けない問題だと言っても、選択肢式問題のみで、通史的理解よりばらばらな知識断片から歴史的に余り意味のないテーマで大門を構成するセンター試験の世界史は悪問の見本市でしかありません。(私立大学の問題の大半は、それこそ重箱の隅をつつくようなものが多いのですが、東北地方では国公立大学への進学者数・率が、高等学校の進学実績を図る最大の尺度になっているので、殆ど問題にされません。)でも、大学入試になかったなら、国数英の草刈り場にされて、まともに単位数も確保できなくなることは目に見えています。そうした意味からも、「受験と離れて自由に」などということは、高校現場からみれば全くの空理空論です。

Re: 暗記を意識する前に歴史を好きになったものとして

高橋先生、丁寧なコメントありがとうございます。
最後の一文、“「受験と離れて自由に」などということは、高校現場からみれば全くの空理空論です。"という御指摘は、非常に重い一文だと思います。
ただ、この記事に即して言えば、歴史イコール「暗記科目」という認識の是非と、高校現場における大学入試対策として「事項を憶えること」の是非とは、必ずしも一致しないと考えています。
逆に言えば、英語だって数多くの単語を憶えていないとお話になりませんし、国語や数学、理科などにしても相当数の覚えるべき事項があるわけで、入試対策としてそれらを憶える必要があることは当然であるわけです。
でも、それらの科目が「暗記科目」として認識されているかといえば、決してそうではないでしょう。
もちろん、入試対策のためにあらゆる科目を「暗記科目」として勉強している生徒が一定数いることは承知していますが、その場合入試対策以外の個々の科目を学ぶ意味は完全に切り捨てられているわけで、そういう立場を教える側が採用するのはやはりまずいとおもいます。
また、必要な事項を憶える際にも、単なる暗記より、歴史的脈絡を押さえて理解しながら憶える方が結局は効率的なやり方だと思います。
そういうわけで、この記事は決して高校現場の大学入試対策への努力そのものを否定しているわけではないこと、御理解いただければと存じます。

ただ、実際には日本史もしくは世界史で大学入試を受けた経験のない多数派の人々が歴史イコール暗記科目という認識を持っていることは、歴史の持つ社会的価値が否認されているという点で問題視されるべきだと思います。
また、本文でも挙げたように「多数の「歴史嫌い」を量産し続ける」状況についても、まだまだ改善の余地があると思います。
先生が御指摘の、大学入試に関わる制度的問題も変えていく必要があるでしょう。
これらの問題を踏まえた上で、何をどうすればよりよい状況につながるのか、引き続き考えていきたいと考えます。

※2011/09/13 誤字を修正しました。×「け意見」→○「経験」

早速の丁寧な御返事ありがとうございました

岡本弘道様
 早速の丁寧な御返事ありがとうございました。私の最初のコメントは、岡本さんのブログへの感想と、日頃痛感している社会科=地歴公民科の立場の弱さ(一般化できないかもしれませんが)への憤りを、ない交ぜに綴った文章になってしまったようです。岡本さんの今回のブログでの一番の大きな問題意識は、暗記科目とされることによって膨大な歴史嫌いを生み出してしまうことの問題でしょう。私も常にその問題を意識し続けております。簡単に答えの出せない問題であることは同感です。生活現実に根ざすことは必要でも、己の生きている時代・社会の常識以外は理解できないようでは、それこそ変化への対応などできるわけがありません。そうした視野狭窄を克服するための努力が社会科=地歴公民科を学ぶ一番の意味であると思っています。それにしても、学校の成果を数値目標で測り、それによって学校や教員の評価を行おうとすれば、どうしても目につきやすい成果として、進学実績や部活動の試合結果などにのみ注目が集まります。そのために、受験に対応できる「学力」の養成ばかりが目標となってしまいます。2006年の「未履修問題」は、まさにその通弊が露顕したものでした。数値に表れないものをどう大切にしていくか?迂遠な話ですが、このことが必要です。しかしながら、教育現場の実情は目前の数値目標の達成に追われて、そういったことの議論を持ち出す雰囲気はない、(せいぜい校是と現状が話題になるときは若干はあるという位でしょうか)という状況です。それでもあきらめることなく、炉辺談話などで提起していく必要があると思います。またしても議論がずれてしまったかもしれませんが、丁寧な御返事への御礼に代えて、申し上げた次第です。

Re: 早速の丁寧な御返事ありがとうございました

高橋先生、重ねてのコメントありがとうございます。
前回と今回のコメントで先生が述べられた内容は、まさに歴史教育の根幹にかかわる部分だと思います。
教育現場の「目前の数値目標の達成に追われ」「議論を持ち出す雰囲気はない」という状況の中では、歴史教育に直接かかわる教師と生徒だけに訴えかけても、自ずから限界があるのかも知れません。
それだけに、受験等で直接歴史の学習に利害を持つわけではない多数派の人々に対して、どのように歴史を学ぶ意味を理解してもらうのか、そのことの方がより重要であるように思われます。
「歴史は面白い」「歴史を学んで考えることは重要だ」といった認識の輪がだんだん広まっていけば、現在の閉塞しつつある状況も変わっていくのではないか、甘い期待かも知れませんがそんなことを考えているところです。
先生や他の皆さんの御意見を伺いつつ、引き続き考えていきたいと思っています。

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