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Author:rekikyo
大阪大学歴史教育研究会の公式ブログです。
原則として事務局スタッフの記事を中心に週一更新、その他告知や参加メンバーによる投稿等があれば随時掲載します。

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世界史・日本史・地域史をむすぶ ―もう一つの黒船来航―

特任研究員の後藤敦史です。
大阪大学歴史教育研究会をはじめ、いわゆる「阪大史学」においては、グローバル、リージョン、ネーション、ローカル、の4つの層を「くらべる・つなげる」世界史像に取り組んできました。
今回は、僕なりの、「阪大史学」で学んだ成果を発表したいと思います。

もうかなり前のこととなりますが、2010年12月、大阪府池田市内の、とある高校のY先生からお誘いをいただき、同校において
「もう一つの黒船来航」
と題して講演をする機会をいただきました。
当時、僕は池田市で、市史編さんの業務のお手伝いもしておりました。
ですので、せっかくだから、大阪大学歴史教育研究会と池田市史編纂室で学んだ成果を同時に出したい、という欲がわきました。
そこで、上記のタイトルで、世界史(グローバルとリージョン)と、日本史(ネーション)と、池田(ローカル)の歴史をつなげる試みをしたわけです。

「もう一つの黒船来航」とは、1854年(安政元)9月18日(以下、月日はすべて旧暦です)、大阪湾の天保山沖にロシア使節プチャーチンの乗るディアナ号が来航した事件を指します。
世界史の教科書にも日本史の教科書にもふれられていないのですが、外国船は大阪湾にも来航したのです。
とはいえ、ペリー来航=黒船来航、およびロシア船以外にも、イギリス船などが来航していたのであり、「もう一つの」と断言してしまうのは、厳密には正しくありません。
それでも、大阪という場でお話するということもあって、あえてキャッチーなタイトルをつけた次第です。

さて、なぜこれが世界史、日本史、池田の歴史を結ぶことになるのか。

①世界史
ロシア使節プチャーチンが大阪湾に来たのは、クリミア戦争が影響しています。
クリミア戦争の情報を得たプチャーチンは、イギリス・フランス艦隊から逃れつつ、早々に日本との交渉を結着させるため、大阪湾に行くことを決めます。

「日本全国の主であり、天の御子であるミカドの住むミアコに近い大坂の町へ行くことにしたのである。かつてヨーロッパでは、ミカドのことを、不当にも「霊の皇帝」と呼んでいた。大坂ならば根拠のない場所ではないと提督は考えた。日本人たちは、この閉ざされた聖域に、不意に異国人が現れたことに恐れおののき、早々にこちらの提案条件に応じるであろうと予測したのである。」
(『〈新異国叢書11〉ゴンチャローフ日本渡航記』雄松堂出版、1969年、616頁。2008年の講談社学術文庫版では収録されていない部分なので要注意)

以上の引用のように、天皇の住むという京都に近い大阪湾に行くことで、徳川幕府の側が驚いて、交渉が円滑に進むことを期待したわけです。
また、イギリス・フランス艦隊から逃れるためにも、大阪湾は姿をくらますのに適していた、という理由も考えられます。

しかし、十分な補給もなく、交渉も期待していたほどスムーズに進まなかったため、10月に入るとプチャーチンは下田に進み、そこで日露和親条約が締結されました。
※その交渉の途中に、安政の東海大地震が起こり(11月4日)、津波によって下田滞在中のディアナ号が損傷をうけ、後日沈没したため、伊豆半島の戸田というところで新しく船が造られた、というエピソードもあります。

②日本史
プチャーチンが予想したなかで見事に当たったのは、徳川幕府が「恐れおのの」いたということです。
当時の幕府は、まさか大阪湾に外国船が来るとは、予想もしていなかったのです。

1853年のペリー来航を機に、京都に近い大阪湾の海岸防備を強化するべきだ、という意見は幕府内部からも出されていました。しかし、結局防備は進むことなく、ロシア船の来航を迎えます。
なぜ幕府は大阪湾の海防の強化を行わなかったのか。
ここで、評定所一座といわれる幕府の役人たちの、1854年7月の意見書をみてみます。

「結局、江戸近海に渡来する外国船の意図とは、江戸城に近い所に乗り込んで、外国の志願が許されるかどうかによって、さらに江戸湾内へ進むなど、恐喝するのに都合がいいためであり、大阪近海へ来るのと江戸近海に来るのでは、もともと意味が異なっている」
(拙稿「楠葉台場以前の大坂湾防備」『ヒストリア』217号、大阪歴史学会、2009年より)

要するに、何か要求がある外国船は、江戸湾(東京湾)に来るだろう、という判断なわけです。
だからこそ、ロシア船の大阪湾来航に、大きく驚いたわけです。

この事件がその後の日本史に与えた影響をまとめると、
・京都の朝廷が、幕府に大阪湾をはじめとする近畿一円の防備強化を強く要求
・幕府は近畿近辺の諸大名に京都の防備を命じた
・そのため、軍事力をともなった大名が京都に滞在するという状況につながった
・その結果、京都の「政治都市」化が進んだ

幕末の政治史において、京都が政局の中心地となる下地がつくられたわけです。

③池田の歴史
ロシア船が天保山沖に滞在しているあいだ、現在の豊中・池田市域に所領をもっていた麻田藩(1万石程の小大名)も、出兵を命じられます。
そして、その出兵中の藩士たちの食料や武具運搬を担う農民たちが「人足」として動員されることとなります。
たとえば現在の池田市豊島南という場所のあたりにあった今在家村(今でも「北今在家」というバス停があります)では、ロシア船が来航したその日の夜に、10人が「急人足」として動員されました。
その村の庄屋は、「米の取り込み中であり、まことに大迷惑仕り」と書き残しています。

以上、講演をした高校では、クリミア戦争、幕末の朝廷・幕府の力関係の逆転、動員された池田の人びと、という順で、世界史の大きな動きが、日本史にも大きな影響を与え、さらにそのなかで生きていた人びとにも直接影響していた、ということから、
1、科目としては、世界史、日本史とわかれているけど、歴史というのは、実はそんなきっぱりと境界線で分けへだてられるものではないんだ。
2、歴史は著名な事件、人物だけで成り立っているわけではない、その当時、それぞれの地域で、実際に人びとが生きていたんだ。
※上記③の話は、もちろん池田市以外の様々な地域で話をすることができます。
3、いろんな視点からいろんな出来事を考察できる歴史って、すごくおもしろくない!?
というお話をした次第です。
幸い、それなりに好評価をいただきました。生徒さんのなかから、歴史に興味を抱くようになり、さらには大阪大学歴史教育研究会にも興味をもってくれる方が増えてくれれば、まさに本望です。


なお、「もう一つの黒船来航」については、池田市史編纂室様の御厚意で、同市の広報に原稿を書かせていただきました。
池田市のホームページから、「広報いけだ」というところを選んでいただき、その2012年3月号をクリックしていただければ、PDFで閲覧可能です。

※池田市ホームページ
http://www.city.ikeda.osaka.jp/

ちょっと長くなってしまいましたが、御拝読、どうもありがとうございました。(文責:後藤敦史(事務局))

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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